【試し読み】月を欲す 上: ヤクザなイケメンに飼われてます! 外伝

月を欲す 上: ヤクザなイケメンに飼われてます! 外伝

ドSな彼氏シリーズ

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 灰色の空は、冬の気配がした。乾いた空気に白い息が溶けていく。裏通りの狭い道には、ビールの空き缶と、コンビニのつまみらしい袋、食べ残しのごみが散乱している。誰かが騒いだ名残を見ながら、堤はうんざりした気持ちでため息を吐き出した。
 思考がボンヤリしているのは、昨夜の疲労と寝不足のせいだ。『クリスマスの朝』という、ともすればロマンティックな言葉も、関係ない者からすれば迷惑なだけである。現実的な問題、『お祭り』は面倒ばかりだ。目の前のゴミもそうだし、朝方飛び込んできたトラブルもそう。
 萬葉(まんようちょう)四丁目交番に勤務する堤(つつみ)政樹(まさき)にとって、クリスマスイブは一年のうちでも最悪のイベントの一つである。当日勤務だったのはもちろんだが、何しろトラブルが多い。男女間のトラブルやケンカ、酔っぱらいが暴れている、近隣で大騒ぎしている馬鹿がいるなど、警察が介入するのも少なくない。まして、萬葉町はキャバクラやホストクラブが犇めく繁華街だ。結局、引き継ぎを終えて解放されたのは午後一時を過ぎていた。『クリスマスの朝』というロマンスなんて、迷信なのである。
「はぁ……、怠っ」
 ため息を吐き出し、家路を急ぐ。スマートフォンには親友の赤澤(あかざわ)康一(こういち)から『ケーキがあるから寄れば』とメッセージが入っていたが、そんな気分になれなかった。警官になったばかりの頃は、非番でも寝ずに遊び回ったものだが、そんな気力もない。目標だった復讐を終えたことも、原因かも知れない。
(いつまで、お巡りさんやるんだろう)
『生涯警察官』なんて、立派な人間性じゃないのは解っている。辞めるヤツも多い職場だ。自分はどうかと問いかける。
 堤は気鬱になりそうな気分を払うように首を振り、近道のために、猫くらいしか通らなさそうな細い裏道に入り込んだ。飲み屋の裏口が続く通路は、通行人は殆ど通らない。この道を行くのが、アパートへの近道だった。
 不意に、道の先に何かがあるのに気づいて、堤は目を細めた。薄暗い路地の奥に、何かが道を塞いでいる。
「――?」
 一瞬、居酒屋の出したゴミかと思った。ゴミの散乱する路地の壁にもたれ掛かっていたのは、見覚えのある男だった。
「っ、おいっ!?」
 驚き、慌てて駆け寄る。ぐったりと俯いた顔は血の気がなく、酷く青ざめていた。
「久保田(くぼた)! しっかりしろ!」
 頬を張るが、返事はない。久保田月郎(つきろう)は柏原(かしわばら)組のヤクザだ。縁あって、知り合いでもあった。堤は濡れた感触に、ハッとして手のひらを見つめた。赤い鮮血が、べったりと手に着いている。
「――」
 久保田の腹に、鋭利なナイフが突き刺さっていた。



 ズキリという痛みで、月郎は目を覚ました。うっすらと瞳を開き、周囲を確認する。
「――?」
 見覚えのない天井。布団に寝かされているらしい状況に、月郎は警戒して音を立てないようにして起き上がる。
 畳の敷かれた部屋。ガラスの引戸の向こうに見える小さな台所。襖で間仕切りされた部屋の鴨居には服が乱雑に掛けられている。テレビにちゃぶ台、それから大きな本棚。部屋の主は読書家らしく、本棚にはぎっしりと本が詰め込まれ、入りきらなかった本が畳にも積まれていた。
(――ここは、どこや?)
 ずきん、と痛む腹に顔をしかめる。月郎は自分の腹に巻かれた包帯を見て、治療されていることに気づいた。
(ああ――死なんかったか)
 痛みに、生きているのを実感する。ケンカは良くしたし、殺されると思ったのも今日が初めてではない。だが、今日こそ死ぬと思った。あるいは死ぬつもりで、路地裏を這いずったつもりでもある。見つかったのなら、悪運が強かったのだろう。
「チッ……」
 舌打ちし、目を細めたところで、月郎は横でモゾりと動くものに気がついた。布団の端から、茶色の髪が覗いている。
「――」
 見知った顔に、月郎は目を見開いた。堤政樹という名のこの警察官とは、妙な縁があった。彼の知人を詐欺にかけたのを問い詰められたところから始まり、自身の復讐の対象と同じ人物に恨みを抱いていた。その縁で、一時は共闘したこともある。ヤクザと繋がりのある汚職警官。だが実態は、正義感の厚い男だった。
(こいつが助けたんか)
 寝息を立てる横顔を見ながら、納得する。血を流して倒れていた月郎を、無視できなかったのだろう。警察官なのだから、自分の事情を知っているだろうに、お人好し故か通報もせずに家に連れてきたのだ。
(馬鹿なヤツ)
 病院に連れていけば事件性を問われる。刺し傷は明らかで、背中に刺青まで入っているのだ。それを避けたのは、知り合いだからだろう。月郎のほうは、二度と関わることはないと思っていたのに、縁とは不思議なものだ。この男とはどうにも関わるようになっているらしい。
 疼く痛みに顔をしかめ、月郎は安堵の息を吐き出した。
 取りあえず、生きている。堤のもとならば、一先ずの安寧を得ることは出来そうだ。痛みで眠れそうになかったが、横から聞こえる寝息のせいか微睡みが微かに降りて、月郎は瞼を閉じて布団に横になった。



   ◆   ◆   ◆



 爆睡した。当直勤務の翌日は大抵疲れているが、これ程深い眠りは久し振りだった。三十時間以上起きていたのだから、当然と言えば当然だ。だがそれ以上に、原因は拾ってきてしまったものにあると解っている。
 堤は欠伸をして、シーツの皺がついた顔をしかめた。起きてみれば部屋の中に我が物顔で居座って、他人のタバコを勝手に吹かす月郎がいる。
「よぉ。お目覚めか」
「……勝手に他人のタバコ吸うな」
「腹が痛てぇんだ。堅いこと言うなや」
 痛みを誤魔化したいのだろう、腹を擦って言う月郎に、それ以上文句も言えず、堤は唇を曲げて髪を掻いた。狭い場所で寝たせいか、身体が痛い。つい拾ってしまったが、誰かを寝かせる広さなど、このアパートには無かった。
「臓器に傷は無いってよ。悪運が強いな」
「そりゃどうも」
「……誰に、やられたんだ?」
 傷は知り合いの闇医者に診て貰った。ヤクザ相手でも診てくれるような医者だ。当然、刺し傷を見ても何も聞かれなかった。通報することも出来たが、それはしなかった。する気ならいつでも出来る。
「さあ。恨みは買ってるもんでね」
「……あのなぁ」
 堤は呆れたが、それ以上は聞かなかった。月郎も言うつもりはないのだろう。ヤクザと警察。二人は相容れない存在のはずだ。
 襖に寄りかかってタバコを吹かす月郎から目を逸らし、時計を見る。時刻は二十時を回っていた。スマートフォンにも着信はない。どうやら今日は、このまま事件もなく休めそうだ。
「なんか飯……は、行けないか。ピザならまだ間に合うか。食うだろ?」
「あ? あぁ……」
 曖昧に返す月郎は、顔をしかめたまま冴えない表情だ。大分失血したようだし、痛みがあるのだろう。
「肉が載ってるピザにするか。飯食ったら薬飲めよ。痛み止め貰ってる」
「それを先に言えや」
 不満そうにする月郎に、堤は思わず笑ってしまった。



 いつまでも裸に包帯というままにはいかないので、仕方がなしに堤の服を貸す。スウェット姿の月郎は幼く見えて、少し頼りない。目を覚まして誰かが居るという光景は、随分久し振りだった。
「……そういや年下だったか。何歳?」
「三十四」
「二つ下か。もっと下かと思ったわ」
「若いんでね」
 まだ二十代だと思ったが、思ったより歳は離れていないらしい。軽口を叩ける程度には回復したようだが、まだ顔は青白く、薬のせいか眠そうだ。それでも昨夜よりはマシのようだが。
「俺は朝飯買って来るからよ。お前あんまりウロウロすんなよ。あと、近所に見られんな。ヤクザ匿ってるとか、シャレにならねえ」
「あー。取り敢えず寝てるわ」
 ごろんと横になる月郎に、堤は溜め息を吐いた。誰にやられたのか、月郎は黙りだ。ヤクザの世界のことだ。首を突っ込むつもりはなかったが、気にはなる。月郎の服は血塗れで、もう着るのは無理だろう。よく生きていたと思う。
 死体を発見することになっていたかも知れないと思うと、ゾッとした。
(ホント、知り合いの死体発見とか最悪過ぎるからな)
 アパートの扉を開き、外へと出る。近隣は穏やかな様子で、特に変わった様子はない。月郎を拾ったのを誰かに見られていたら、とヒヤヒヤしていたが、一先ず問題はなさそうだ。
(これから、どうするかな)
 命を狙われているらしい月郎を、いつまで匿うつもりなのか。我ながら、感情だけで動いてしまったものだ。
(上田(うえだ)に相談すれば)
 刑事部捜査四課に所属する上田龍奥(たつおき)は、堤の悪友だ。警察学校時代の同期であり、今も交流がある。命を狙われていると、警察に保護して貰うことも可能だろう。だが、月郎が望むとは思えなかった。
 こういうとき、警察感情ではなく私情で動いてしまうのが、堤の悪いところだろう。自他ともに認める汚職警察。ヤクザと繋がり警察の情報を流していたこともある。事情があったにせよ、堤は形ばかりの警察官だ。
 いずれにしろ、月郎が決めることだ。もしかしたら弁当を買いに行く間に、消えているかもしれない。そう思いながら、堤は近所の弁当屋へと入っていった。



   ◆   ◆   ◆



 部屋に戻ると、相変わらず月郎の姿があった。布団の上に横になって瞳を閉じる姿に、訳もなくホッとする。
 カーテンの隙間から漏れた日射しが、月郎の顔を照らす。睫が影を作って頬に落ちていた。眉を寄せているのは痛みのせいだろう。僅かに滲む汗のせいで額に張り付いた前髪を払ってやる。
「……おい。飯買ってきたぞ」
「っ、ん……」
 うっすらと瞳を開き、月郎が寝返りをうつ。
「あー……。クソ、痛てぇ」
「痛み止め効かないか?」
「どうしようもねえな。モルヒネくらいじゃねえと」
「あのなあ」
 医療用だとしても、使わせられない。看ているのは闇医者だ。月郎も無理なのは解っているらしく、のそりと起き上がり肩を竦めた。
「あんた暇そうやな。警察ってそんなに暇なのか?」
 弁当を受けとりながら、月郎が悪態を吐く。
「お前な、助けて貰った上に飯まで食わせて貰って。なんだその言い方は。昨日は非番。今日は休日。三交代制なの」
 警察官の三交代制勤務は、聞いているだけなら楽勝で、実際に勤務するとハードだ。丸一日の出勤日の次の日が非番。その次が休日。出勤、非番、休日の三交代を繰り返す。出勤というのはそのままで、堤の場合は警察署に顔を出し、当直の警官から引き継ぎをして派出所勤務に向かう。丸一日働いたら、翌日、引き継ぎをして非番となる。非番というのは出動要請があったらすぐに出勤対応する、所謂待機日である。勿論、何事もなければ休日のようなものだが、実際はそうも行かない。引き継ぎをして書類を作り、そうやっている間に事件が発生すればその対応をする。大抵は三十時間以上の連続勤務となるのはそのせいだ。そしてようやく休日。その繰り返し。
 若いうちは良いが、歳を重ねればキツイし、警察関係者以外とはスケジュールがほぼ合わない。周囲から取り残され、身体を壊し、辞めていく者も多かった。
「ふん? よく解らねえけど」
「良いよ。解らなくて。どうせ興味もねーだろ」
「まあ、そうでもないがな。おまわりさんの仕事やなんて、一番縁遠い」
 白飯を口に運んで、笑いながら月郎がそう言う。確かに、警察とヤクザなんてセットのようだが、実際に関係するのは事件の時だ。近いようで遠い。そんな感じだろうか。
「ま、どうでも良いけど。しばらく世話になるぜ」
 一通り弁当を平らげ、月郎は布団に横になった。ふぁ、と欠伸をしてごろんと寝転がる。
「おい。いつまで居る気だよ?」
「さー。拾ったのはあんたやろ」
「あのなあ」
「責任持って、飼ってくれや」
「犬猫じゃねーんだよ」
 月郎は笑ったが、本気のようだった。とにかく、しばらく居座る気らしい。堤は「この家狭いのに」と溢しながら頭を掻いた。

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