【試し読み】桜町商店街青年部ただいま恋愛中! 6: Turbulence

桜町商店街シリーズ
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それは、『木綿(もめん)や紙が焦げる臭い』の意味の言葉だったな、と柏原(かしはら)は思った。
実に国語教師らしい感慨だなとは思いつつも、違和感があった。ここは、田舎町のインターネットカフェだ。
数日風呂に入っていないような、ツンと鼻を突く不愉快な体臭ならばともかく、その匂いは、不似合いだ、と言って良い。
きな臭い。
唐突に現れた、不可解な文脈を、うとうとしながら探ったとき、けたたましいベルの音が店内にこだまして、はた、と柏原の意識は覚醒した。
『火事です! 速やかに非常口から脱出してください。』
同じ文言を繰り返す館内放送を聴きながら、柏原は口許を手で覆う。少なくとも、学校ではこう教えたはずだし、柏原も子供たちにそう教えている。
インターネットカフェで寝泊まりしている柏原は、店舗奥の個室を利用していた。最低限の貴重品だけを持って、個室のドアを開いて狭い通路に出る。
店内には、うっすらと煙が充満しつつあるのが解る。火の手はどこから出ているのか解らないが、おそらく、キッチンだろう。それならば、店の入り口だ。
(……非常口は……)
防犯上、店の奥に非常口がないことを知っている。本を持ち出しされたり、料金を踏み倒したりする輩の為の措置だろう。それは解るが、そうなると、推定火元の横を抜けて避難すると言うことになる。
周りには、ここに住み着いている常連たちもいるはずだ。このインターネットカフェは内側から鍵が掛けられる個室を有している。念のため、見知った人たちが住んでいるドアをたたきながら、出口を目指す。
(煙が、酷いな……)
店内は、悲鳴と怒号で溢れていた。けれど、今は、そんな場合ではない。身を低くして、とにかく、逃げなければならない。
(こんなところで死んだりしたら、学校にどんな連絡が行くやら……)
それに、『小学校教師、寝泊まりしていたネットカフェで事故死』という、不名誉極まりないテロップを付けられて報道されると思ったら、ぞっとした。
なんとしてでも、脱出しなければ。
決意を新たに腹に気合いを入れたところで、柏原は、ふと、やはり、ネットカフェでは聞き慣れない匂いを感じた。
(……灯油?)
前の学校のストーブが、灯油だった。小学生に灯油を扱わせるわけには行かないから、毎日毎日、一年生から六年生まで十二クラス分の灯油を入れていた冬を思い出す。
頭の中に、嫌な単語が過ったが、それは慌てて、否定した。
今は、そんなことを考えている場合ではない。
柏原は、とにかく、入り口を目指した。
◇ ◇
「どうした、なにやら物憂げな顔だな」
不意に言われて汐見颯(しおみそう)はラーメンを啜る手を止めた。物憂げ。日常生活では、中々お目に掛からない単語だ。
「えー? ……今さぁ、オレ、平沼(ひらぬま)さんのところに転がり込んでるじゃないですか」
「まあそうだな」
隣に座る二階堂(にかいどう)和樹(かずき)は、ラーメンを啜りながら、実に素っ気なく呟く。
颯が転がり込んだビストロに、最近、二階堂和樹は足繁く通っている。大抵一人だが、知り合いらしい中年男性と一緒に来ることもある。この男の交友関係に興味はないが、中々、謎だった。
そして、さらに最近では、昼食に誘われて、桜町商店街の店を二人で巡っている。
昨日は定食屋。今日は、去年出来たラーメン屋だった。
「……平沼さん、どうやらカノジョいるみたいでさ。たまーに夜中に出て行って、気だるげな感じで朝帰りして帰ってくるんだよね。となったら、オレ、けっこう邪魔者じゃないかなって。平沼さんに言っても、気を遣って、迷惑とは言わないだろうし」
「なるほど」
二階堂和樹は、ラーメンを啜る。
その様子を見た颯は、不意に、この、二階堂和樹という男が、実に整った顔立ちをしていることに気がついた。
米屋、という職業のせいもあるのか、細身だが筋肉も付いている。どうも、口を開けば『桜町』のことしかいわないので、変人だと思っていたが、黙っていれば、顔が良い事だし、『桜町』の良い広告塔になりそうな気もした。
(いっそ、顔出しでインスタでもやった方がウケそう……)
「どうした? ラーメンがのびるぞ」
「あっ! うん……」
慌てて、ラーメンを口にして、存外熱くて舌をやけどしそうになって慌てて水を貰うと、二階堂和樹が、やんわりと笑っている。
「ちょっと! なに笑ってんの?」
「いや。微笑ましいなと思っただけだ」
「……なにそれ」
「いや? ……最初、平沼さんのところに、お前が転がりこんだとき、なにか、よからぬことでも考えて居るのではないかと、少し警戒していたんだ」
二階堂和樹が、まっすぐと颯を見ながら言う。腹の底まで探るような、視線だった。
「監視してた?」
「有り体に言えば」
否定しなかったのは、少しだけ、好感を持った。ヘンにごまかされたら、そちらの方が、不審感を持っただろう。
「それで? オレは、お米屋さんのお眼鏡にかなったわけ?」
「ああ。申し分ない。……ところで、住む場所を探しているんだろう?」
「えっ? ああ、だってさ……平沼さんに悪いでしょ。あの人、アレで、かなーり気を遣う人だし。カノジョから恨まれても困るし」
居心地は良いんだけどねーと、颯は付け加える。
平沼の家のリビング。そのソファを使わせて貰っている。朝食は颯が作っているが、昼食も夕食も、平沼の作る美味しい料理が食べられるし、家賃も固辞された。けれど、このままでは、ずっと、平沼に迷惑を掛けそうな気がしてたまらない気持ちにもなっている。桜町に住むなら、そろそろ、住居を構えるべきなのだ。
「とはいえ、不動産屋に聞いたら、部屋がないって言う話なんだけどさー。ほらさ、この間、隣の駅で火事があったでしょ? あの時、柏原先生も巻き込まれたらしくて、住む所を探してるらしいって言ってるんだけど、どうにも、最近、このあたり、部屋がないらしいってさ」
「柏原先生?」
「うん。……小学校の国語の先生。あの人、今は、洋品店に転がり込んでるって言ってたけど。小学校でも、そろそろどこかに定住してくれって嘆いてるって言ってた」
「柏原先生の件には全く興味はないが……もし、お前が、桜町に住むつもりがあるなら、俺が紹介出来るが?」
「紹介……って?」
「住む所を」
さらり、と二階堂和樹は、そんなことを言う。今までも、この話題は出ていたはずだった。だが、和樹は、世話が出来るなどと、一言も口にしていない。
「えーっ?」
「今まで、お前が、どういう人物なのか、監視していただけだ。今は、仲間になって、この町で住んで貰えたら心強いと思っている」
颯は、戸惑った。
二階堂和樹は、まっすぐ、颯を見ている。嘘を言っているようには見えなかった。
「……住む所……って?」
「端的に言えば、マンション」
「家賃は?」
「いくらでも構わない」
「なにそれ。ただって言ったら、ただで良いって?」
「勿論構わない」
「大家さんは?」
「俺だ」
はいっ? と颯の声は裏返る。チラッと目配せしたら、ラーメン屋の妖艶な店主も、驚いた顔をしている。
「大家って、マンションって……えっと、お米屋さんじゃないの?」
「米屋が、個人的にマンションを所有してはならないという決まりはないと思うが?」
そう言われてみれば、確かに、それはそうだ。
「それで、不動産屋の物件がみつかるまで、貸して貰えるの? 個人的には、凄く、ありがたいけど……」
和樹の『眼鏡にかなった』というだけで、そこまでして貰えることだろうか。
なにか、ウラがあるのではないか。勘ぐってしまう。
「不動産屋の物件が見つかるまでと言うようなことはない。いつまでも、いて貰って構わない……今後不愉快な思いをさせるかも知れないから、最初に伝えておくが」
和樹は、そう、前置きをしてから、一呼吸を置いた。先ほどよりも、さらに、真剣な眼差しが、颯を射る。
「な、なんだよ……」
「俺は、お前に、恋愛対象として好意を持っている。好きな相手に、気に入って貰いたいための行動だから、お前にとっては、ウラしかないといえるだろう」
けたたましい音を立てて、ラーメンどんぶりが床に落ち、割れる音が、颯の耳に遠く、聞こえた。ラーメン屋の店主が、手に持っていた空のラーメンどんぶりを落としてしまったらしかった。店内には、常連らしい客の姿も散見される。視線は、颯と和樹に集中していた。
「ちょっ、……な、なんだって……」
「では、今少し端的に言う。お前の事を監視している間に、惹かれた。お前の事を好きになったんだ。可能であれば、恋人になりたい。その為の、努力は惜しまないつもりだが……お前は、俺のことを、良いように利用してくれても構わない、と言うことだ」
にんまりと、和樹が笑う。
「……な、なに、言ってるんだよ……っ! ラーメン屋さんだって、戸惑って……」
「俺の気持ちとしては、本心なのだから、気にすることはない。特に恥ずべき事とも思わないが……お前が、表だってアピールされるのがイヤならば、控えることにする」
「そ、そうして下さいよっ!!! ……な、なんで……、こんなことに……?」
颯は、頭を抱える。和樹は、嘘を言っているようにも見えないし、冗談でもないのだろう。だから、よりいっそう、困るのだ。
そして、平沼の家を出て行く必要があるのも事実だし、家を用意してくれるのがありがたいというのも、事実だ。
(けど、これは、ヤバすぎない……?)
特に、颯は、過去、同僚男性からセクハラを受けたことがあった。それがあまりにも酷かったので、店を辞めることになってしまった。そういう意味で、男性に触られたり近付かれたりすることに、まだ、恐怖感がある。
「平沼さんのところで働いてる所をずっと見ていたんだが、俺は、どうやら、お前が笑った顔が好きみたいでな。声も好きだし、単純に、雰囲気に惹かれたというヤツだ」
「ちょっと、やめてよっ!!!」
「いや、告白した以上、どこがどう気に入ったか、きちんと伝えるのは、当然の義務だろう」
これが世界の常識、とでも言わんばかりの態度に、え、そうなのか? と颯のほうが面食らう。
「さて、話はまとまったことだし、まずは、マンションに行くか」
「えっ? 今の流れで、どこが、まとまったんですか? あんたっ!!」
「……和樹」
「はいっ?」
「和樹と呼んでくれると嬉しい」
名前を呼ぶくらいのことは、別に構わない気がしたが、ここで、素直に『和樹』と呼ぶことに、なんとなく、躊躇があった。
「……二階堂さん」
「つれないな。まあいい。落とし甲斐があると思っておこう」
「そのポジティブシンキング、なんなんですか……」
「マンションには、興味はない?」
和樹が、にこりと笑う。今まで、見たことのない微笑みだった。腹のそこが見えない。
「家具、家電付き。水道高熱費、家賃、無料」
現在、殆ど手持ちの金を持っていない颯としては、すぐにでも飛びつきたい案件だ。けれど、そこには、そこはかとなく、貞操の危機という単語が揺らめいているような気がする。
「何が……望みなんだよ」
颯は、自分が、すこぶる立場が弱いと言うことを自覚していた。
「少しでも、俺を、恋愛対象として、意識して貰えたら、まずは、上々だ」
「はあ……なんか、あんたが、本気っぽいのだけは、理解したけど……」
「それならば、それで十分だ。……じゃあ、行こう、颯」
「っ!!!!」
いきなり、名前を呼ばれて、颯は飛び上がるほど驚く。つい、今し方まで、『お前』と呼んでいたではないか。
「イヤか?」
「……そこまで、親しくないでしょ」
「では、今から、そうなろう。……俺は、颯と呼ぶ。颯は、俺のことを、和樹と呼ぶ、それでいいだろう? お互い、対等だ」
「そうかも知れないけど……気分的に、まだ、その……」
「……告白した相手に、名前を呼ぶのも許して貰えないのは、気分的にこたえるな。まだ、フラれてもいないのに、フラれた気分だ。汐見さん……なら、文句はないか?」
わざとらしいくらい、和樹は悲しそうな顔をして、チラチラと汐見を見ながら言う。
芝居がかった仕草に、つい、うっかり、流されそうになりつつ、
「そうですね、二階堂さん。俺は、このくらいの距離感が、安心出来ますよ。……それと……、オレは、男性とお付き合いなんて、考えられませんから」
と、颯は警戒しながら答えるが、和樹は、実際、それほど気にしていないようだった。
「まあ、ゼロからのやりとりと言うことで、承知した。俺は、意外に、気は長いし、諦めも悪いよ」
たしかに、諦めは悪そうだ、と颯は思ったが口には出さなかった。
和樹に案内された『駐車場』に止まっていた車を見て、颯は凍り付く。
真っ赤なスポーツカーは、跳ね馬のエンブレムで有名な、あの、フェラーリだった。地面を這うような、低い車高、それに、キザなくらい鮮やかなイタリアンレッド。
「これ……なに……?」
「俺の車だ……。助手席は、颯……いや、汐見さんの為だけのものだよ」
蕩けそうなくらい甘い笑顔を見せられて、颯は、くらくらした。こんな、恐ろしいセリフを、素で吐くことが出来る人間がいるというのが、信じられない。今時の少女漫画でも、こんなキャラクターは居ないんじゃないかと思う。
「乗って。マンションまで行こう」
助手席に乗り込むと、想像よりも低い視界に、驚く。スポーツカーを運転する和樹の姿は、異様なほどサマになっていて、カッコイイのも腹が立つ。『恋愛対象として意識』して欲しいという言葉の呪いに掛かったように、勝手に、胸が高鳴るのが怖い。
「……二階堂さん、お米屋さんですよね? なにか、悪いことでもやってるの?」
「なぜ?」
「だって……お金持ちって、大抵、悪いことやってるんじゃないの?」
颯の言葉を聞いた和樹が、小さく吹き出した。
「汐見さんは、お金持ちになりたくない?」
「えっ? そりゃー……誰だって、お金持ちになりたいでしょうが」
「でも、汐見さんのその論理だと、お金持ちになるためには、悪いことをしなければならないということになるけど?」
思わぬ事を言われて、ぐっ、と颯は返答に詰まった。
運転席の和樹は、涼しい顔をしたまま、ハンドルを操作している。運転は、実に、丁寧だった。気になることと言えば、意外に、フェラーリのエンジンがうるさいと言うことだ。だが、静かすぎて間が持たない、国産のエコカーより良い。
「……もっとも」
赤信号。滑らかに、車が、停止する。和樹が、笑みを浮かべながら、颯に言った。
「汐見さんに対する『悪いこと』なら、俺が提供しそうだけど」
「っ……ちょっ……っ」
なんとなく、言いたいことの意味はわかった。
(なんで、下心があるって言うヤツの車に、のこのこ乗って来たんだろ、オレっ!!!)
身の危険を今更感じてしまい、颯は焦る。
そもそも……颯は、前にいた店を、男性からのセクハラで退職している。だから、男性からの、嫌な接触は気にしていた。近付かれたら、警戒もしていた。だというのに、今日のタイミングまで、和樹からは、『警戒されている』というのは薄々感じていたけれど、それ以上のものは感じなかった。だから、つい、うっかり、気にしないままになってしまったのだ。
「悪いことってなんだよ」
「想像にお任せする」
和樹が余裕たっぷりに笑ったのが、少し悔しかった。