【試し読み】桜町商店街青年部ただいま恋愛中! 7: crepuscular rays

桜町商店街シリーズ
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行為の最中、平沼(ひらぬま)優(ゆう)輝(き)は雇っているアルバイト・汐見颯(しおみそう)の、とろけるような笑顔を思い出した。
颯は、恋人になった桜町の米屋、二階堂(にかいどう)和樹(かずき)と目が合うと、とろけるような笑顔を、和樹に向ける。そのまばゆさを、最近、優輝は、少々の胸の痛みと共にうらやましさを感じながら見ている。
「……平沼さん、集中して」
耳たぶを噛まれて、急激に意識が引き戻される。
優輝を抱く男は、こういうときばかり、あまい声で囁いてくる。最奥を貫かれる、この容積も、熱も、慣れてしまった感覚だった。
「あっ……っんっ……」
「こういうとき、他のことを考えるのって……、ちょっと、マナー違反、だと思うんだけど」
男―――猫(ねこ)島(しま)虎(こ)太郎(たろう)の言い方に、思わず、優輝は微苦笑してしまう。
「マナー、ですか」
「そうそう。こういう仲にも……礼儀ありっていうでしょ?」
週に何度か。気が向いたときに熱を求め合うだけの、気軽な関係。そこに存在するマナーはなんだろうか。
「そんなもの、あるんですか?」
「ありますよ」
と言いながら、猫島が、優輝の腰を捕らえて、ぐい、と引き寄せる。
「あっ……っぁぁっっ!」
弱いところを的確に突き上げられて、優輝の喉がのけぞった。
「……例えば、相手に、他の誰かを重ねない、とか」
「えっ? ……んんっ」
「……こうしている間だけは、お互いに集中する、とか」
酷く揺さぶられて、息も出来なくなる。
「あ、ちょっ……んっ……は……」
「……感じてるフリとかは、マナーの範囲で、とか」
「えっ……、何……っ?」
猫島が、何を言いたいのか、よく解らない。身に覚えのないことばかり言われているのだけは、解ったが……なぜ、猫島が、こんなことを言うのか、それが理解出来ない。
「あっ、んっ、……っも……」
「ダメダメ……今日は、朝まで、するからね……?」
まだ、夜は深い。朝まで、と言う単語に、期待する自分もいて、優輝は頬が熱くなる。
「……体力……持たない」
「ダメ……」
猫島がゆっくりとキスをしてくる。いつもより、妙に優しいやり方で、落ち着かない。
「……猫島、さ……」
「……ナカ」
「えっ?」
猫島の手が、優輝の腹を這った。そのあたりに、猫島の欲望を、受け入れているはずだった。それを、探るような、手つきだった。
「ナカ……俺の形に、こんなに馴染んじゃったのに……他のヤツでイケるの?」
「えっ?」
何を言われているのか、よく解らなかった。ただ、他の男と、こんなことをしているのかと詰るような、そんな言葉だ。
「……なん、……で、そんな……っぁぁっ」
「他の男のことなんか、今は考えないで、俺に集中して」
嫉妬されている? 独占欲? 良く、解らない。猫島と優輝は、そんな関係じゃない。
「……なんで、僕が、あなた以外のひとと……する、必要があるんですか」
第一、僕は、男の人が好きなわけじゃないですし。こうなったのだって、なりゆきだし。
猫島が、きょとん、とした顔になった。それから、「俺以外と、しないんだ」と、確認するように耳元に呟く。
「えっ? ……ええ……それが……?」
猫島が、優輝の身体を掻き抱く。抱かれながら、こんな風に抱きしめられたことは今まであっただろうか。よく解らないが、全身、密着する、熱い身体の感触に、目眩がする。
「猫島さ……」
「……俺だけにしておいて」
その睦言の有効範囲が、どこまであるのか解らないが。
それでも。ただ、今は、その言葉が嬉しくて、優輝も猫島の身体を抱き返した。
◇ ◇
結局、宣言通り、明け方近くまで、猫島に抱かれ続けた。
身体はしんどいし、喉に違和感があって、声がガラガラだったが、精神的な満足感が高い。
「お豆腐はいいんですか? 町の人が待ってるんでしょ?」
「俺は、別に、お豆腐屋さんじゃないからね。だから、別に……」
「待ってる人も居ると思うけど」
猫島の部屋の、ベッドの上。裸のままで、猫島の腕枕を受けながら、優輝は呟く。
こうして、のんびりした時間を過ごすのは、悪くない。身体中にキスマークが散っていたり、噛みあとがあったりするのは、とりあえず、置いておくとしても、猫島が、嫉妬心丸出しで抱いてきたのは、悪くなかった。
(少しは、僕の事を好きになってくれた……とか)
それなら嬉しいが、期待はしないでおく。自分の『所有物』が他の誰かに使われていたら嫌だという、その程度のモノなのかも知れない。だから、そこは、黙っておく。
猫島は、そっと優輝の身体を抱き寄せて、髪を撫でる。
「昨日の、さ……あれは……」
猫島が、小さく呟く。
「はい?」
「……ホント?」
「何のことですか?」
猫島の顔を見上げる。猫島は、微妙な顔をしていた。この問いを。するつもりはなかったのかも知れない。
「……いや、その、ちょっと気になっていたから。ただ、本当だったら。嬉しいってだけで……」
猫島はなにやら、ごにょごにょと呟いている。その理由が、よく解らない。ただ、猫島に振り回されたくない優輝は「変な猫島さん」とだけ呟いて、目を閉じた。その瞼に、猫島がキスを落としてくる。柔い感触が心地よかった。
「あのさ、『変な猫島さん』からの提案なんだけど」
「はい?」
「今度、デートしない?」
これは、『セフレ』のマナーに反するのではないか。
そんな言葉が、優輝の頭の中をぐるぐると回っていた。
◇ ◇
デート、と申し出たとき、優輝は、一瞬、汚物でも見るような顔をして、猫島を見た―――と猫島は思っている。
『それって、『セフレ』のマナーに反するのでは?』
怪訝そうな顔をする優輝に、『セフレだって、デートくらいするでしょ、一般的に』と『一般的に』を強調してみたが、『そんなもんですかね?』と実に、優輝は素っ気なかった。
(……そりゃ、ただの、……セフレですけれども)
セフレだって、デートくらいはするだろう。たまには。
(いや、その煩わしさがないから、ヤるだけヤってって事なんだろうけど)
あれから、猫島はどうにもモヤモヤしている。理由はわかっている。
(平沼さんが。あの時、俺以外の誰かの事を、考えてたから……)
それは、マナー違反だろう。猫島に抱かれている間は、猫島のことだけを考えているべきなのだ。そういうことを、言ったような気はするが、優輝が否定も肯定もしなかったのも、なんとなく、もやもやする。
(平沼さん、一体どこの男のことを考えてたんだろ)
この桜町の中で平沼と一番親しいのは、自分だという自負が、猫島にはある。その次は、多分、バイトで雇っている汐見颯だろう。仕事中はずっと一緒に居るわけだから、親しくもなる。けれど、問題は、親しくなったからと言って、ああいうシーンで、その人物のことを思い浮かべるか、ということだ。
(平沼さん、本当は、ああいうのが好みなのかな)
年は、平沼よりも少し若いと思う。実際は解らない。もしかしたら、若く見えるだけかも知れない。
気が利くのは解る。接客を受けたことはあるが、物腰は丁寧だし、よく気がつく。
水の入ったコップを傾けてしまって、パンとテーブルを濡らしてしまったことがあったが、すぐに気がついて、替えのパンを持ってきてくれた上に、水を注ぎ直して、そして、ささっとテーブルを整えてくれた。
店に居るときは、控えめに見える。
(けど……平沼さん、前に男に襲われたとき、あの汐見さんと、学校の先生に助けて貰ったんだったかな……)
ならば、ピンチを救ってくれたヒーローとして、かなり、優輝のなかでは評価が高いのではないだろうか。
そして、不意に、もう一つ、嫌なことを思い出した。
優輝が、客に襲われそうになったというのは、町中に流れる噂で、子細を把握しているが……腹立たしいことに、優輝は、その話を、猫島にはしてこない。おそらく、怖かっただろう。そして、誰かに愚痴を言い、もっと、支えて欲しいタイミングでもあっただろう。その役割を、優輝は猫島に求めなかった。
(そりゃ……セフレ、ですけど……)
遠くの親戚より、近くのセフレって言うじゃないか。いや、言わないか。などと考えて、猫島は、ベッドの上にごろんと横になる。
つい数時間前まで、ここに、優輝がいた。
それが幻のように思える。
最中の優輝は、いつもの真面目な様子とは、うって違って、酷く色っぽかった。
(あれ……、凄い良いんだよな……)
猫島は思い立って、サイドテーブルの上に置き去りになっている、メモを取った。久しぶりに手に取るメモは、ほこりが積もっていて、一枚破り捨ててから、ペンを走らせる。
優輝の肌。あの、滑らかで、手に吸い付いてくるような質感。それと、かすかな香り。なんの香りに似ているのか。猫島は想像する。本当ならば、背徳感のある表現にしたかったが、どうも、ならない。あの肌の香りは、甘酸っぱい禁断の果実と言うより、優しい榛(はしばみ)の実のような、暖かな香りだ。体温が上がっていくと、やがてうっすらと汗が滲んでくる。全身に、珠のような汗が滲んでくると、安心する。それは、本当に、彼の自我が混濁するほど、猫島に夢中になっているときだけ、訪れる変化だからだ。
(昨日は……)
どうだっただろう。いつものように、いつもと同じ、慣れた夜を過ごしてしまって、うまく思い出せない。いや、優輝は、きっと、本気で感じていなかった。だから、猫島がそれに気がついた。いつもみたいに、自分に夢中になってくれていないと。猫島のほうが、それに、もやもやする。感情に、安易に名前を付けるのを、猫島は避けている。その揺らぎを表現するのが、自身の役割であって、それしか出来ないので、安易に世間の物差しと閾(しきい)値を使って、感情を表現したくはない―――が、ある程度の自己分析をするときは、それを行う。
それの『一般的な物差し』で言うならば。
(……嫉妬……)
嫉妬、というのが、一番近い。そして、それは、『セフレ』には、ほど遠い感情のはずだった。
そういえば、なし崩し的に関係を持ってしまった二人なので、猫島も優輝も、お互いの感情を知らない。感情を必要としていない―――のかどうかは、解らない。ただ、お互いの深いところに触れるのを、お互い、避けている。
それに、いくらかの、物足りなさを感じ始めているのに、猫島は、薄々気付いているが、手は出さない。理由を見つけるのは、多分『マナー違反』だ。そんなマナーが、どこにあるのか解らないけれど。
ペンを置いて、ふと、床に何かが落ちていることに気がついた。
優輝の、ハンカチだった。
(忘れ物をして、取りに来る……とか、まあ、あの人は、そういうことはしないよな……)
女性ならば。わざと忘れ物をして、また、家に来る『口実』を作るような人も居た。まんざらではない気持ちになったものの、その可愛らしいあざとさが透けて、少し、食傷気味な気持ちになったのも否めない。
ハンカチを手に取る。綺麗にアイロンが掛けられた、チェック柄のハンカチ。
なんとなく、優輝の香りが残っているような気がして、鼻を近づけるが、柔軟剤の匂いに阻まれる。
(残念)
再びベッドに転がろうと思ったときだった。
けたたましい音が、豆腐屋のシャッターをゆらしている。誰かが、ものすごい勢いで、シャッターを叩いているようだった。
(もしかして、ハンカチ……)
猫島は、まさか、と思いつつ、何かを期待していた。優輝が、また、ハンカチを口実にここへ来てくれることを。
そんなはずはない、と思うのと、そうであって欲しい気持ちが綯い交ぜになっている。それを、客観的に観察している自分に気付きながら、猫島は、そっと、シャッターを開けた。
「はいはい……、近所迷惑でしょー? もう、電話してくれれば良かったのに……」
ブツブツとぼやきながらシャッターを開けた猫島は、シャッターを叩いていた相手を見て、呆然となった。
「なんで?」と思わず口から言葉がこぼれる。
「なんでじゃねーよ!」
苛立たしげに、その人は、チッと一つ舌打ちした。
◇ ◇
デート。
今までの人生で、確かに、何度か、する機会はあった。だが、それはすべて、異性で、しかも、まっとうな手順を踏んでお付き合いをして、順当に交際に発展していったという過程での出来事だったので―――勿論、相手との、初めてのデートの時は、それぞれに楽しみ半分怖さ半分の、あのドキドキした感じに襲われていたモノだが、現在、優輝は、デートのイメージがあまりにも思いつかずに、途方に暮れていた。
どこかへ、行くというのか。
だが、二人で行くところなど、桜町商店街の中しかないだろう。
デート……手でも繋ぐか……? それも微妙だ。
買い物、食事……どれもこれも商店街の中で成り立つとは思えない。
「なんで、あの人……急に、デートなんて……」
恋人と一緒に居るときの、颯の幸せそうな顔などは、うらやましいとは思う。好きな相手と、ただ、一緒に居るだけで幸せだというのが、あの表情を見ていれば一目でわかる。だが、自分はどうだろう、と思ってしまう。
猫島のことは好きだ。だが、猫島の側に居て、あんな表情をしているとは思えない。
猫島とは、ただの『セフレ』。それだけ。
「だから……、マナー違反、なんですよ……」
やはり、セフレと、デートは、あまり良くない気がする。
断ってしまおうか。そう思ったけれど、その一方で、恋人みたいなことをするのには、興味がある。デートの間だけ、恋人で居られるなら、良いのかも知れない……という気持ちにもなる。
けれど、なぜ、猫島が急にデートに誘ってきたのか解らず、それに戸惑うばかりだ。
なんの意図があるのか。単に、思いつきなのか。
「だいたい、あの人、僕と一緒に出かけたからって、何が嬉しいのか……」
優輝は想像してみる。猫島と一緒に出掛ける。セックスだけじゃなくて、他愛ない話をする……何か会話があるのか、よく解らない。美味しいものを食べるのは好きなようだったが、それ以上のことを知らない。猫島に踏み込みたくなくて、彼の書いた小説というのも、読んでいない。猫島のことが好きでも―――彼の真意もなにも知りたくない。
それを、自分の臆病さのせいだと言うことは、優輝も自覚はしている。
今のまま。
このゆるい関係性だけを、保っていけば良い。
(どうせ、僕たちに、なにか、明るい未来みたいなモノなんかはないんだし)
男性同士ということもそうだが、猫島は、ふらりとこの町に現れたように、いずれふらりと、この町を去るだろう。
そして、連絡先も残さないまま。聞かないまま。それで、終わり。
優輝だけは、時々書店に行く回数が増えるかも知れない。そして、彼の著作に手を伸ばして、結局手を取らずに、料理の本でも買って、家へ戻るのが目に見えている。
猫島との待ち合わせは、桜町駅だった。
さすがに『デート』というからには、別な町に行くようで、それだけは少し安心した。
待ち合わせの時間ギリギリまで、何を着ていくのか悩んで、クローゼット中の服をひっぱり出して、ああでもないこうでもないとコーディネートを考える自分に、そこそこ、自己嫌悪しつつ、それでも、『デート』という言葉の与える、浮き足だったようなニュアンスに、心は躍っている。ごちゃごちゃ、している。
どこへ行くか、解らない。
セフレらしく、別な町へ行って、どこかで食事でもしてから、ラブホテルにでも行くつもりだろうか。男性同士でも、利用可能なのか、優輝はよく解らない。
いつも通りの無難な普段着を着込んで、駅へと向かう。万が一、家に立ち寄られたら困るから、引っ張り出した服はクローゼットに押し込んで、足早に向かう。桜町駅は、とても小さい。たまに、鉄道マニアらしい人が来て『レトロ駅舎』として写真を撮っていくくらいだ。自動改札もない。交通系のICカードも使うことが出来ない。紙の切符を自動券売機で買って、そのまま乗り込む。ラッシュ時間帯だけは係員がいるが、それも、近所のご婦人がボランティアで引き受けているものだった。それ以外の時間は、無人駅だ。いまのタイミングならば、係員はいないはずだった。優輝は、たまに、手続きで隣町に行くことがあるので、この辺の事を知っているが、最初は戸惑った。
駅舎の前に、猫島の姿はあった。普段通りの格好だった。その姿を見て、優輝も、いつも通りの格好をしてきて良かったと思う。
約束の時間には、まだあるはずだったが、猫島は、すこし早く来ていたようだった。なんとなく、待たせてしまったのかも知れないと思って、優輝は小走りに走り出そうとして、ぴたり、と歩みが止まった。
猫島に、近付く男のすがたがあった。
長身で、ラフにTシャツを着込んでいる。顔は、見えなかったが、彼の姿を見た猫島の表情が、緩んだように見えた。
優輝には、見せたことがないような、親密そうな表情だった。少し、困ったような表情には見えた。
彼は、ツカツカと猫島に近寄ると、おもむろに肩をつかむ。なにか、揉めているようで、言い合いをしているようだったが、何を言っているのか、全く、聞こえない。猫島が、何かを、弁明しているようにも見える。
足許から、ざーっと、力が抜けていくような、そんな、感覚を、優輝は味わった。
浮き足立っていた気持ちが、一気に冷えていく。
その人は、誰なのか。聞けば良いような気がしたが、それは、なんの権利があって、出来る問いかけなのか、優輝には解らない。
気がついたら、駅に背を向けて、優輝は、自宅へと走り出していた。