【試し読み】桜町商店街青年部ただいま恋愛中! 9: Blooming

桜町商店街シリーズ
購入
店のドアが開く音を聞いて、反射的に「いらっしゃいませ」と迎えた汐見(しおみ)は、見慣れない男が来訪したのを知った。
ビストロなので、新規の客が来るのは当たり前のことなのだが、男の雰囲気は、なんとなくこのあたりの人では、ないような気がした。身に纏う雰囲気が、少し、異質だ。
長身でクセのある長い髪を一つにまとめてお団子にしている。テレビや雑誌で見かける、IT企業の代表のような、格好をしているせいもあるだろう。
お一人ですか? と汐見が声をかけるよりも先に、
「へぇ、いい店だね。雰囲気が良い。さすが、和樹(かずき)くんが通う店だけあるなあ。あ、僕は一人ね」
と言いながら店に入ってくる。
「あ、いらっしゃいませ……」
なんとなく気後れしていた汐見だったが、男は気にしたようすもなく、スタスタと入ってきて、まっすぐ、店の端の席を指差した。
「あそこの席、大丈夫だよね」
「ええ、大丈夫です。どうぞ……その席、二階堂(にかいどう)さんもお使いなんです。二階堂さんからのご紹介ですか?」
メニューを渡しながら、汐見は男に言う。
「和樹くんが、この席を使ってるのは知ってるよ。和樹くんからの紹介でこの店に来たわけじゃないけどね。……やっと来られたから、楽しみにしてるんだ」
男は笑いながら言う。
紹介ではない、というが『和樹くん』こと二階堂和樹とは知り合いのようだった。
「そうなんですか」
桜町再生プロジェクトの発起人の、二階堂和樹は、汐見の恋人でもある。和樹には、謎の顔の広さや、金回りの良さがある。決して、そのあたりの事情を汐見に語ることはないが、眼の前の男も、そういう、汐見には見せない部分での繋がりを持つ人物なのだろう。
そのことに、胸の底が、ざらつくような感覚を覚えたが、汐見は笑顔でそれを乗り切ることにした。
「二階堂さんのお知り合いなんですよね? お名前を伺ってもよろしいですか?」
「え? 僕? んー、そうだね。和樹くんに会ったら、僕が桜町に来たよって伝えて貰えるかな。僕は、岩永(いわなが)というんだ。
それより、お兄さん、綺麗な顔をしてるね。ここは店員さん? よかったら、名前教えてよ」
岩永のフレンドリーさに、少々、違和感と、ささやかな嫌な感じを覚えつつ、汐見は笑顔で応える。
「あ、失礼しました。俺は、ここのアルバイトで、汐見と言います」
「汐見さんね。これからよろしく。僕は、隣町に小さな会社を作ったから、桜町にも頻繁に来る予定だよ。あ、そうだ、注文いいかな?」
笑顔でいう岩永は、淀みなく注文していく。
店長の平沼のところへ、オーダーを通すと、平沼(ひらぬま)が一瞬、動きを止めた。
「どうしたんですか? 平沼さん」
「ん……、あのお客様、ご新規だよね」
「え? ええ、そうですけど」
「……注文が、二階堂さんとまったく一緒なんだよね」
まあ偶然かもしれないけど、と言って平沼は作業へ向かった。
その言葉を聞いた汐見は、背筋に震えが走るのを感じた。
和樹は毎回同じ注文をするわけではない。だが、だいたいの傾向というのはある。それが、岩永の注文と一致していた。そして。
(……メニューにも黒板にもない注文をしてる……)
キャロットラペは、今日、数が少ないので黒板には書かなかった。常連から言われたら出すつもりではいたが……。
確かに、ビストロならばキャロットラペくらいあっても不思議なことはないだろう。だが、岩永は、絶対に『ある』と各心して、キャロットラペを注文したような気がした。
(岩永さん……なんか、ちょっと、怖いな……)
明るい笑顔で、コミュニケーション力も高いのだろう。だが、少し、気にはしておこう、と汐見は思った。岩永、という男の事を聞こうと思っていたが、なんとなく聞きそびれた。ビストロのバイトが終わる頃に、和樹が迎えに来てくれるが、その頃にはすでに岩永は帰ったあとだったし、家に帰ったそばから、和樹に電話がかかって来たため、聞けずに忘れていた。
和樹は、汐見には解らない言語で電話をしていた。
何語か解らない。一つ解っているのは、英語でも日本語でもないこと。最近、ビストロの仕事をしているのと、もともとパン屋志望だった事もあって、少々のフランス語の単語も分かるが、それでもなかった。
(和樹の、昔の、知り合い……)
少なくとも、岩永はそういう立ち位置なのだろう。そして、昔の、というほど浅い付き合いでもなさそうだった。なぜならば、岩永は、ビストロでの和樹の振る舞いを知っていたからだ。少なくとも、会話をして居るのだろう。
『最近、ビストロに通ってるんだ。桜町に『再生プロジェクト』で来てくれたビストロで……』
などと、和樹が岩永と会話をする所を想像して、なんとなく、違和感がある。そんな話でもしなければビストロには通わないような気もするが、和樹から、岩永の話を聞いたこともない。
(まあ和樹って……過去の事は全く語らないんだけどさ……)
傍らで眠る和樹の寝顔を見ながら、汐見は、小さな溜息をついた。
恋人である和樹は、十分に優しい。けれど、なにか、厳然とした越えてはならないラインのようなものが引かれていて、そこには、綺麗に目隠しされているような感じだった。汐見の気のせいなのかもしれないが、そこに、違和感がある。
(勿論、和樹が、悪いことをしているとは思わないんだけどさ……)
それでも、たまに、腑に落ちなくなるときがある。それは、和樹の、本当の姿を垣間見る時だ。汐見が想像も付かないような人と、電話でやりとりをしている時がある。和樹は、あちこちの海外に行っていたという話を聞くが、その事についても知らない。謎にお金を持っているのは知っている。けれど、そのお金の出所も、本当は何をやっているのかも、よく解らない。ただ、寂れた商店街の、つぶれかけた米屋が、そのお金の出所ではないだろうというのは、汐見にも解る。
過去は―――聞けば教えてくれるかも知れない。
だが、聞くことが怖い。
(なんで、怖いのかな……)
ただの過去、だろう。後ろ暗いところがなければ、教えてくれるだろう。けれど、今まで、なんとなく、聞いたことはない。聞いて、教えてくれなかったり、はぐらかされたりするのが嫌なのだ。
なんとなく、もやもやとした気持ちのまま、汐見はキッチンへ向かった。
朝食は、だいたいパンだ。
汐見が、焼いたパンを、和樹が幸せそうに頬張る。米屋のはずなのに、和樹は、朝は絶対にパンでないとならないという。頭が働かないのだそうだ。
『颯(そう)の作るパンが世界で一番美味しい』
と言いながら、作ったパンを沢山食べてくれるのは嬉しい。幸せだな、というのもじんわりと噛みしめている。
(ああ、なんか、もやもやする……)
正直に、聞いた方が良いのだろうが、行動に移せない。けれど、このままでいて良いというのはないだろうと、汐見自身も、うすうす感じていることだ。
今は、生活のすべてを和樹に依存しているような状態だ。コレに甘んじて良いのかという気持ちが強い。相談したら、問題ないと和樹は言うだろう。けれど、和樹にも相談はするが、汐見自身が考えなければらないことでもある。
「一旦、気持ち切り替えないと」
今日は、何故か予約客が多かった。
それで、仕込みの為に早く出なければならない。その上、最近、ランチタイムの営業も始まった。おかげで、汐見と、ビストロのオーナー・平沼は、一日中働いているような感じになってしまったが、客には好評だ。目下の所、週に二日、金曜と土曜日のランチだけ営業することになったのだ。
今日は忙しくなるはずだ。朝食をしっかり食べて行かなければならないだろう。
金曜日。
明日は大方の会社勤めの人たちが休みと言うこともあって、予約客で混雑する。だいたい、二名から四名くらいの席で予約を受け付けていたが、ほぼ満席だった。
(ランチタイムも予約があったな……)
この時間は、汐見だけでなく、商店街の閉店した豆腐屋に住んでいる、猫島虎太郎がフロアの手伝いに来てくれる。平沼は、『本業があるでしょう』と、割合冷たい声でいうのだが、虎太郎のほうは、気にした様子はなかった。この二人は、かなり親密な感じで、よく、客として訪れ、そのあとは飲み足りないのか、平沼の部屋で飲んでいることも多いようだ。
常連が、フロアを手伝うというのは良いのだろうかとも思うが、親しい友人という立ち位置なのだろう。
朝食の支度が終わった頃「済まない、遅くなった」と 和樹が、寝間着のままでダイニングに姿を現す。ばつが悪そうな顔をしていた。
「あ、おはよ。……ご飯、もうちょっとで出来るよ。着替えてきたら?」
「ああ、うん……その、昨日は済まない。ちょっと、知り合いから電話が掛かってきて」
謎の言語を駆使して電話をして居るのを、汐見も知っている。
「そうなんだ」
「少し、長引いた」
少し、ではないかも知れない。和樹の目の下には、青白いクマが出来ている。『どんな知り合い?』と聞けば良いのに、何故か、聞くことが出来なかった。
「そーなんだ。……今日も、パンが焼き上がってるよ。今日は、新作のコーンパン」
「美味しそうだ」
和樹の顔が、笑顔で輝く。この、笑顔が好きだ。その、ウラに何があるのか、今はまだ、見たくないだけなのかも知れないと、汐見は、なんとなく、そう思った。
最近始まったランチは、街人たちも気軽に食べに来てくれる。
パスタのセットか、ハンバーグのセットの二択しかないが、リピーターも多い。
「桜町でお昼っていうと、うめ食堂しかなかったから、ここがランチやって来れて嬉しいよ! いや、うめ食堂も好きなんだけど、昼飯時は、オッサンしかいないから居づらかったんだよ〜。それに、ビストロのランチって、女性客来そうだし!」
と手放しで喜んでいるのは、市役所の地域振興課職員、高橋(たかはし)だった。高橋は、桜町に人を呼ぶべく、頻繁に桜町に通っている。
桜町再生プロジェクトは、二階堂和樹が発起人のはずだが、行政側との連携も必要だ。そして、その、行政側の人間が、高橋だった。
つまり、
(和樹とは、やりとりしてると思うんだけど)
家の中で、和樹が、高橋とやり取りしている雰囲気はない。
「高橋さんって、桜町再生プロジェクトに、関わってるんですよね?」
「ん? あ!そうだよ〜。え、汐見さん、興味ある? 移住はしてるんだよね?」
高橋が前のめりになって言う。
「ちょっと、興味があるだけですよ」
かつては、自分の、店を持つのが夢だった。だが、現実は、そう甘くない。資金の話もあるし、人とのやりとりもある。自分の店を持つということに対して、ビジョンが、見えない。諦めてはいないはずだが、やはり、遥か遠いところにある夢のような心地だ。
「ふーん、そうなんですか? ここのパンって汐見さんが作ってるんですよね? パン屋さんがあると、町が盛り上がると思うんだけどなあ」
高橋が残念そうにつぶやく。
「再生プロジェクトって、高橋さんが主催なんですか?」
あえて、汐見は、そう聞いてみた。なにを聞き出したいか、汐見自身にもわかっていなかったが……。
「主催というか、行政側としてはね。窓口みたいな感じかな。あくまでも二階堂さんが主体でやってるから……あの人と市を調整するのに俺がいる感じかなあ」
二階堂さん、と聞いて、汐見の胸がドキリ、と跳ねる。聞いて良かったのか。最初からここまでは知っていたはずなのに、汐見はそう思った。
「まあ、何か、知りたいことがあったら気楽に聞いてよ。あとは、二階堂さんに聞けばすぐだよ。汐見さん、二階堂さんと親しいんでしょ?」
高橋が明るく笑う。
汐見はなにか、話足りないような気分にはなったが、ランチタイムに、ぼんやりしている場合ではない。現に、いまも、汐見の分まで虎太郎ががんばっている。
「それじゃあ、パスタランチでかしこまりました」
汐見も笑顔で受けて、平沼のところへ向かった。
ランチタイムの慌ただしいことは、この上ない。だが、みんな、短いランチタイムをスピーディーに満喫するため、スムーズな行動を心がけてくれている。
十一時半からの早いランチを楽しむ人と、ピーク時間帯。そして地元村木(むらき)精密機械は遅いランチタイムなのでゆっくり出来る。
その分、ビストロはピーク時間帯が長引くが、ランチを気に入って夜も来てくれる人が、増えた。
汐見が今日嬉しかったのは、ハンバーグセットを注文してくれたお客様が、帰り際、
『パンの小売りってしてないですか?』
と聞いてくれたことだった。
パンが美味しかったので。自宅でも食べたくて。家族にも食べさせたいし。
そう言って笑った中年女性の笑顔が、まばゆく感じる。それは幸せな瞬間だった。
ぱあっと眼の前が明るくなるような、そんな幸福感を味わった汐見は、脳裏に高橋の声を聞いた。
『パン屋さんがあると、町が盛り上がると思うんだけどなあ』
そのパン屋さんを、汐見が手掛けるのだとしたら。それは、どんなに素敵なことだろう。
ランチのあと、なんとなく夢見がちな気分になりつつ、まかないを食べていると、虎(こ)太郎(たろう)が、
「なんか、汐見さん、良いことでもあった?」
と聞いてきたので、慌てて、「別にないですよ」と答えて、パスタを頬張った。
なにか、捕まえたような、微かな予感のようなものは、誰かに触れられたら、壊れてしまいそうなほどに、微かなものだったからだ。
「え〜? そうなの? なんか、良いことでもあったような、気がしたのに」
残念そうに唇を尖らせてみせた虎太郎の脇を、平沼が肘でつつく。
「あなた、小説は一文字でも進んだんですか?」
「うっ、そんなイケズなことを言うなんて……」
「誰しも突っ込まれたくないことはありますよ」
静かに平沼はコーヒーを飲む。まかないは、パスタ。これはシンプルなジェノベーゼソースのもの。それにパンとサラダ。コーヒーと小菓子だった。たっぷり食べて休憩を入れないと、夜からの営業に差し支える。英気を養うためにも、大切なものだった。
「……でも、汐見さん、なにか僕で相談に乗れることなら、遠慮なく言って下さい」
平沼は、多分、気づいたのだろう。パンを作りたい汐見の気持ちに。けれど、ぐいぐい聞いてこないところが、平沼らしい。
「え、何? 二人で通じ合ってるの? なんで? 俺だけ仲間外れは嫌だよぉ〜」
「このバカの扱い方とか、まずは相談に乗りますからね」
静かに平沼が虎太郎を見やる。しゅん、と虎太郎がしょげかえったのが面白かった。