【試し読み】桜町商店街青年部ただいま恋愛中! 10: Position

桜町商店街シリーズ
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洗わずにいた髪の先端から、ぽたぽたと雫が落ちて床に広がる。
「怜央くん、髪くらい乾かさないと」
岸谷貴宏(きしたにたかひろ)は、ルームシェアの同居人、猫島怜央(ねこしまれお)がリビングで作業をして居るのを見ながら、小声で注意する。
怜央がシャワーから上がって、入れ替わりに岸谷がシャワーを使った。そして戻ってくるまでの間、ずっとリビングで作業をして居たらしい。
タカタカと軽快な音を立てながら、キーボードを叩いている。
怜央は、ライトノベルの作家だった。
webの小説投稿サイトからのデビューで、毎日、ものすごい量の小説を量産している。
今も、その作業なのだろう。
一度スイッチが入ってしまうと、作業が一区切りつくまでの間、外野の音は聞こえなくなるらしい。素晴らしい集中力だった。
「ちょっと、風邪引きそうだから、髪、乾かすよ?」
見ていられなくなって、岸谷は怜央の髪をタオルでガシガシとやって水分を取るが、それでも怜央の手は止まらないし、顔は、ノートパソコンのディスプレイを見たままだ。このスタイルを、ずっと崩すことはない。
そして、このやりとりも、毎日の事だった。
ドライヤーを引っ張ってきて、髪を乾かす。くせ毛の怜央は、濡れているときだけ、ストレートになる。それが乾かしていく間に、くるんと丸まっていくのが面白い。完全にストレートの髪質な岸谷にはないものだった。
ドライヤーで乾かし、ブラシで髪型を整えている間も、完全になすがまま。
こういう状態の怜央に、何を話しかけても、全く返答がないというのは岸谷も理解している。
ルームシェアして、一緒に暮らすようになってから、しばらく経つが、実は交わした会話というのは、驚くほど少ない気がする。
「はー……」
怜央が大きく溜息を吐いた。
「終わったの?」
ブローしながら、岸谷が問うと、「ええ、やっと……今日は、なんか、時間がかかったっスね……」と疲れたように、怜央が言う。珍しかった。
執筆のストレスを解消するのに別の執筆を始めるというのが、怜央の毎日だった。時間が掛かる、とか、そういうことは今まで聞いたことがなかった。
「……今度、新刊が出るっていうんで、フェアやってくれるんですよ。それは良いんですけどね、あちこちの書店さんで、特典付けるっていうから、それ専用の、特典作ってたら……結構難しくて。自分、長編体質なんで、短い話って苦手なんですよ……」
岸谷は、なんとも、イメージしにくいので「そうなんだ」とだけ答えておく。
「新刊が出るのは、めでたいね。……もし仕事が一段落しているんだったら、一緒に食事でも行く? 隣のビストロにでも」
「あ、平沼さんのとこですか?」
「そうそう」
岸谷の家は、桜町商店街で不動産屋を営んでいる。その不動産屋の隣が、ビストロだった。
「いつも、うちの兄貴が入り浸ってるんですよ、あそこ」
兄、猫島虎(こ)太郎(たろう)も小説家だ。ただし、こちらは純文学の小説家だった。岸谷も読んだ事がある作家だが、どうもしばらく一文字も作品を書いていないという評判だった。しばらく前に桜町に住み着いて、それから、ビストロにはよく出入りしている。
(―――というより、あの二人は恋人同士なんだろうな)
ビストロの店主、平沼(ひらぬま)と、怜央の兄・虎太郎。あの二人が親密な様子は、店が隣と言うこともあって、何度か目撃している。岸谷自体、誰と誰がくっつこうが割と気にしていなかったし、男性同士のカップルというのも、抵抗感はなかった。
(……むしろ、俺は、怜央くんが好きなんだがな……)
だから、他に移られて、悪い虫が付く前に、手元に引き入れた。今、怜央は、不動産でバイトをしつつ、喫茶店を経営しながら、ライトノベルを執筆している。そして、住む所を探している怜央に、ルームシェアを持ちかけたのも、岸谷だ。
一目惚れだった。
何が良いと思ったのか、全く解らない。今までの人生で、一目惚れをしたことなど、一度もなかったからだ。
(接触しても、嫌がらない……)
抱きついたり、一緒に寝たりしても、怜央は、けろりとしている。
それが、よく解らなかった。
嫌がるそぶりもないが、代わりに、喜んでいるというのでもない。ただ、拒否はされないから、接触はしているが、岸谷は、なんとも、微妙な気分になっている。
(まあ……、すこし、気長にやるとするか……)
ルームシェアをしているので、もし、居心地が悪くなったり、仕事のパフォーマンスが落ちたりしたら、きっと、怜央は出て行ってしまうだろう。
そうならないように。けれど、今更、どうやって距離をつめたら良いか、よく解らない。
「じゃあ、ビストロ、明日でいい? 予約するから」
「うん」
怜央は、無邪気に笑った。それが、なんとも、もやもやした気分になった。
◇ ◇
不動産屋の事務仕事を片付けながら、喫茶店の営業をする。その傍らの隙間時間で小説の執筆を行うのが怜央の日課だった。
喫茶店については、利益が出なくても構わないという状態だったので、ほぼ店番感覚の部分もある。それでも、コーヒーを求めてやってくる客や、軽食などを求める客もいるが、それは、小説を書く上での休憩のようなものだと考えていた。
喫茶店の営業は、モーニングタイム、ランチタイム、ティータイムに分かれていて、それぞれ提供する料理を固定している。
ある程度仕込みをしておいて、あとは、注文次第提供すれば良いという状態だ。
ランチタイムは、桜町在住の中高年層が来ることが多い。メニューも、カレーとナポリタン、オムライスとサンドウィッチだけに絞っている。一番読めないのが、ティータイムだった。
全く客が来ない日もあるし、満席になる日もある。
ティータイムでは、クリームソーダと、パフェ、それとプリンにチーズケーキを提供している。
仕込みなどで事前に準備しておくモノも多いが、待ちが発生することもある。プリンやチーズケーキの焼き時間の間は、小説に集中出来ると言うわけだった。
今日の営業を終え、片付けまで済ませると、丁度、岸谷に設定されたリマインダの電子音が響き渡る。
「えーと、ビストロか……」
予約時間まであと二十分くらいあったが、早めに向かっても良いだろう。
(そういや、うちの兄貴が、かなり出入りしてるんだよな……)
怜央の兄、虎太郎は、桜町に住み着いている。虎太郎も小説家だが、怜央とは大分、分野が違う。ただ、スランプらしく最近一向に執筆していないとのことで、何故か豆腐を作っていたりする。豆腐は元から作ることが出来たわけではなく、廃業した豆腐屋に住み着いていて、面白そうだから豆腐を作り始めたというのだから、訳が分からない。怜央に言わせれば、そんなことをしているヒマがあれば、素直に小説を書けという所だ。
(小説は、とりあえず書いてれば、絶対終わるのに)
最初の予定と違う話になることや、表現が気に入らないと言うことはあるだろう。だが、一文字でも進捗すれば、そのうちには終わる。
(原稿料前借りしてるらしいけど、大丈夫なのかな、兄貴)
兄の心配は尽きないが、ビストロへ行くことにした。もし、可能ならば、いつも兄が迷惑を掛けているので、ビストロの店主にすこし話を聞いてもいいだろう。近所との関係は、円満、良好にしておきたいものだ。
少し早めにビストロへ向かう。まだ営業時間前だったが、ドアは開いていた。木で出来た重い扉を開いて「こんにちは」と入って行くと、怜央の目の前に思わぬ光景が飛び込んできた。
中には、兄が居た。そして、ビストロの店主、平沼も。
今日は、兄・虎太郎は、店の手伝いをしていたのか、エプロンをつけていた。そこまでは良かった、想定内のことだ。
しかし―――。
兄たちは、カウンター越しに、キスをしていた。
ぎこちなく、兄が振り返る。
平沼が驚いて、兄を突き飛ばす。なにやら弁明しようとしてあたふたしているようだった。
「あの……」
怜央も、なんと声を掛けて良いかわからなかったが、何か言わなければならない。どんな言葉を掛けるのが正しいか、よく解らなかった。
(こういうとき、ラノベだとどうしてた?)
こんなシチュエーションのテンプレはあったか?
兄が、男とキスをしている場所に遭遇するようなラノベ……。
(あ、それ、BLだ)
BLは、よほどのことがなければ読まない。怜央は、なるほど、と、とりあえず、気持ちを落ち着かせることにした。
テレビには、女装タレントが出演して自分の彼氏の話をしていることもある。少なくとも、この日本において、同性同士で恋愛関係になるのは、そう、珍しいことではないのだろう。なので。
「ちょっと早かったッスかね」
何でもないように、怜央が言うと、兄と平沼は、顔を見合わせた。丁度その時、壁掛け時計が、営業時間が来たことを告げる。
「いや……丁度じゃないかな」
「ならよかったっス。……席とかって、決まってますか?」
「えっ、ああ……予約席に……あっちの奥……」
「じゃ、そっち座りますわー。岸谷さんまだみたいだし」
「あ、うん……」
虎太郎はぼんやりと答えていたが、平沼に「とりあえず、メニューの説明して来て下さい!」と言われて、慌てて席までやってきた。
決まり悪そうにしている虎太郎は、「あのさ」とだけ小さく呟くが、営業時間になっているはずなので、何も聞かないことにした。
「とりあえず、話があるならあとで聞くけど……別にないならそれはそれで」
「いや、多分、俺も平沼さんも、一旦話して置いた方が良いような気がするから、明日にでも時間作って」
「解った」
じゃ、コレ、メニューと渡されたが、別にメニューの説明はなかった。
「……兄貴、仕事しろよ……」
猫島家は、両親共働きで、不在にすることが多かった。虎太郎は、そのせいもあって、かなり怜央の世話をみていたはずだ。
物心ついたときには、兄は家事全般をこなしていた。
勿論、怜央も手伝ったが、兄の方が家事は上手いと思っている。
兄は、六歳も年上だった。怜央が中学校に上がった頃は、もう大学生だったのに、世話をみてくれた。兄は、大学在学中に、小説家として文壇にデビューした。兄の書く文章は難しすぎてよく解らなかったが、家には多くの本があった。兄が子供時代に読んでいただろう子供向けの名作集、日本の近代文学は、文豪の全集が普通に書架に並んでいた。両親が殆ど居着かない家だったが、書斎があって、そこに本が堆く積み重なっているのが楽しかった。
けれど中学校の友達に吊られてアニメやゲームをみるうちに、読むのに体力を使う文学全集より、マンガ感覚で繰り返し読みが出来るラノベのほうが好きになった。中学校、市立図書館、高校にあるラノベは読み尽くして、小説投稿サイトで無料連載されていた作品があると気が付いた。そして、小説投稿サイトで読んでいるうちに、自分にも出来るんじゃないかと思った。兄弟で小説家だと聞くと、無遠慮に『お兄さんの影響なんですね』と笑顔で暴力を投げつけてくる人間がいるが、兄の影響ならば、多分、もっと前衛的な作品を作るのだと思う。
怜央は、『読んで楽しい自分も楽しい』小説がすべてだと思っているが、兄は、都市の片隅で生きる人たちに光を当てて、その人達の、心のひだを丁寧に描いていくのが小説家としての使命だと考えている人だ。まるで、性質が違う。文章の形で何らかの物語性を伴った文字の羅列が本となってパッケージングされているものを、単純に小説という言葉に落とし込んだ、乱暴な世界での『同じ』だ。
両親は居なかったが、兄は、居てくれた。
多分、怜央のことを心配して、大学は地元に行ったのだと思う。地元には、文学部はなかったので、兄は、実は文学部の出身ではない。
『いざとなったら稼げそうだし~』と笑いながら言っていたが、商学部の出身だった。しかし、別に会計士の資格を取得はしていない。その前に小説家になってしまった。
小説は、現在遅々として進まないのは知っているが、その他の文筆業は継続している。
エッセイやコラムの類い、書評などは、まだ掲載している。
純文学の世界のスピード感が、怜央には解らないが、兄のような人間も、珍しくはないのかも知れない。
兄の小説賞の受賞が決定してから、最初のプロとしての原稿が雑誌に掲載されるまで、半年。
そこから、単行本は一年過ぎていた。
そして単行本の刊行をすこし過ぎたある日、両親は他界した。事故だった。
丁度、その日は、兄の出版記念もかねて、家族で食事をしようと言っていたはずだった。レストランを予約して、皆で食事をするというのは、初めてだったが―――実施されることはなかった。
家で待っていた怜央は、一人、取り残された。置いていかれた。
しばらくの間、兄と一緒に過ごしていたが、二年前、ふ、と帰らなくなった。
置いていかれた、と思った。それで、兄を探した。
見つけることが出来たのは、サイン会を嫌っている兄が、桜町のブックカフェでサイン会をやっていたからだ。
やっと探して、そして、怜央もこの町に移住した。
生まれ育った家は、たまに帰って、掃除をして居る。ただ、膨大な蔵書も含めて、どうしようかは検討している。
兄は、仮住まいだと思っていたからだ。桜町では、『湊川豆腐店』という、廃業した豆腐屋の店舗兼住宅を借りている。ここを借りたのは、『取材』の為に短期滞在したいから、住めるところを紹介して欲しいと言うことで、案内したのだと、桜町不動産の岸谷は言っていた。だから、住み着くならば、長くはないと考えていた。
(けど、もしかして、平沼さんが恋人? なら、ここにずっといるって言うことなのかな)
少なくとも付き合っている間は、そう言うことになるのだろうか。それは、虎太郎に直接聞かなければ解らないが、少なくとも、平沼の存在は、虎太郎がここに居る理由の一つだろう。
怜央自身も、この桜町では、喫茶店の店長をやっているということもあって、しばらく離れるつもりはないから良いのだが……。
「ごめん、ちょうど、出掛けに、後ろのご隠居さんが駐車場の支払いにきて……」
慌てながら席にやってきた岸谷の姿を見て、怜央は気持ちを切り替える。
コミュニケーション能力は低めという自覚があるが、対外的なスイッチを切り替えるのは、割と得意だ。
「今日、俺、今月分の駐車場代、まだですって電話しました」
「じゃ、それだ」
「お疲れ様でした。ご隠居さん、話長いっスよね」
「そうそう。なんだか、息子さんのお嫁さんの義妹の知り合いのハトコの子が、日本代表になったとかで、凄い喜びようで」
「なんの日本代表なんですか?」
「ああ、セパタクロー」
「え、なに、セパタクロー……?」
「えーとね、バレーボールとキック系格闘技が融合したみたいなヤツ」
「そんなスポーツあるんだ……」
「俺も、見たことはないけどね。ご隠居が、教えてくれたよ。とりあえず、話はあとにして注文しようか。なにか、気になるのある?」
「気になる……」
聞かれて思い出したのは、先ほどキスシーンだった。確かに、気になる。だが、岸谷に言うべきことではない。
「あっちのお客さんが食べてる、前菜の盛り合わせみたいなヤツ、めっちゃ美味しそうですよ」
「えっ? あ、本当だ。あ、ごめん。マナー悪いよね」
岸谷が笑う。
「あと、なんか、うちの兄がいま手伝いに入ってるみたいなんで、お勧めでも持ってきて貰いますか」
「それがいいね」
岸谷が笑った。その顔をみて、なぜか、怜央は、ホッとしていることに気が付いた。