【試し読み】桜町商店街青年部ただいま恋愛中! 外伝3: collection Vol.2

桜町商店街シリーズ
購入
『今一番食べたいもの』
今月に入ってから、長雨が続いている。
おかげでなんとなく肌寒い感じがしているし、湿った空気が不愉快だった。
うめ食堂の店内は、冷房をかけているが、壁を触ると、なんとなくじっとりしている。
こういうときは、食中毒を出さないように、よく注意しなければならなくて、気を遣う時期でもあった。
「……おーい、こっち、ビールもう一本付けてくんねぇか!」
常連客の呼び声に、ハッと我に返った松(まつ)名瀬(なせ)は「今持っていきます」と返事をして、キンキンに冷えた瓶ビールを席まで持っていく。
店の隅に置いたテレビは、バラエティ番組が流れていて、人気芸人がオーバーアクションで食べ物を食べたり、大笑いしたりしている。
人気芸人が、どこかの町へ行って、その町の名物料理を食べるという企画らしい。
「これ、うめ食堂にも来たら良いのにな」
常連客が、悪意無く笑う。
「えっ?」
「これだよ、これー。この、太った芸人さん……名前なんだっけ……、この人とかが桜町に来てくれたら、全国放送だよ! 繁昌するようになるんじゃないの?」
「あー、そうかも知れないですね……。でも、桜町って、名物らしい名物無いですよ」
ビールを渡しながら、松名瀬が言うと「いいんだよ! 地元に愛されてる隠れた名店って話なんだから。俺ァ、絶対、うめ食堂って言うよ! 『うめ食堂のトンカツ定食食っていけ』って!!」とバンッと腰を叩かれた。
「それは有り難いですね」
と受け流しつつ、松名瀬は厨房へ引っ込む。
実際、桜町に、芸能人が来て、テレビ番組で宣伝されるようになったら……と考えた松名瀬は、微苦笑した。
おそらく、『桜町再生プロジェクト』の中心人物として活動している、米屋の店主、二階堂和樹などは、嫌がるだろうと思った。だが……。
「そうそう。市役所のお兄ちゃんあたりは、喜ぶんじゃないの?」
市役所のお兄ちゃん、と聞いて松名瀬はドキッとした。
市役所のお兄ちゃん―――市の観光推進課に所属している、高橋(たかはし)は、このうめ食堂によく顔を出しているから、常連達とも顔なじみになっていた。
「たしかに喜びそうですね。お役所って、テレビ好きそうだから」
「テレビが嫌いな奴なんているのかい?」
「若い子なら、テレビより、YouTubeじゃないんですか?」
「あーあー、違いない。ウチの子供らも、年がら年中スマホばっかり弄ってるよ」
ははは、と笑いながら常連客はビールを飲み干す。
「そういえば、今日は、来ないのかね、高橋さん」
「えっ?」
「だいたい、俺がいるこの時間って、毎週あの人来てるよ。……市役所の『健康推進残業ゼロ宣言デー』でしょ。水曜日って」
松名瀬は、ドキっとした。たしかに、そうなのだ。昔、村木精密機械も、水曜日が『リフレッシュデー』ということになっていて、定時退勤が推進されていた。なので、今日は、周りの会社も定時上がりが多い。つまり、飲みに出る確率が高いと言うことだった。そして―――高橋は、この日を狙って、松名瀬の所を訪れて、泊まっていく事が多い。
まさか、常連に、見抜かれていたとは思わなかった。
勿論、高橋が松名瀬の所に宿泊しているとは、思わないだろうが……。
「なんですか、その妙に長い名前の日は……」
「市役所も、働き方改革とDX化が進んでるんだとさ」
そう言って笑う常連客が、テレビを見ながら「桜町もな。あんたらみたいな若いのが、頑張ってるんだから、もっと活気が出て欲しいもんだよ」としみじみ言う。
「まあ、そうですねぇ……」
たしかに、『桜町再生プロジェクト』のおかげで、町には人が増えた。
すこしずつ、町に新しい店が出来はじめて、変わっていくのが解る。けれど、なんとなく、収まりが悪いような心地を味わっているのも確かだった。
「なんだい、あんまり、嬉しそうじゃねぇなあ」
「嬉しいですよ、そりゃ……ただ、変わってくなあと思っていただけで……」
子供の頃すごしていた商店街とは、姿を変えてしまっている。
松名瀬の家は、この、うめ食堂を経営していたから、子供の頃から店の手伝いをしていた。そこで毎日、村木精密機械のサラリーマン達が食事に来ているのを見て、なんとなく、カッコイイと思っていた。高校を卒業してから、村木精密機械に入社して、カッコイイと思っていたサラリーマン達の日々味わっていた苦労を知り、驚いたものだった。
酒を飲んで店で晩飯を食べていたサラリーマン達は、翌日仕事だ。それでも、精力的に、閉店まで飲み食いしていた。向かいにあるスナック、当時は裏通りにあったスナックにもサラリーマンが集まっていた。そこへ、カツ丼やカレーの出前をしに行ったこともある。
ホステスのお姉さんたちは、みんなキレイで子供に優しかった。小遣い代わりに、お菓子をくれたりする人も居て、それなりに楽しかった。同級生達が、『なんとなくいかがわしい大人達の場所』と理解して居るスナックの中へ入ったことがある、という優越感もあったからだ。
会社が元気で、働いている人たちが元気なら、町も元気になる。
それが、正しい、道だと、松名瀬は感じている。
だから、和樹達が、商店街をまず活性化させようとしていることに、なんとなく、違和感があったのだった。勿論、その疑問は、和樹たちには言うことはない。頑張っている若い連中に、水を差すようなことをしたくはない。それに、できるだけ、みんなに協力するつもりではいた。
やがてバラエティ番組が終了し、終電の前に、客達が帰っていった。
客が引けるときは、なぜか皆一斉に帰る。勿論、閉店時間が間近だというのもあったが……、急に、一人になる、この感じが、雑多に賑やかな営業時間とはかけ離れているようで、なんとなく苦手だった。
一人で黙々と片付けをして、そのあとは店全体を掃除していく……。
この時間、ぽつん、と取り残された気持ちになるのは、心のどこかで、村木精密機械のサラリーマンだった時代を懐かしむ気持ちがあるのだろうと、松名瀬は思っている。
皿を洗い終え、おしぼりは業者へ渡すための箱の中へ入れておく。厨房と客席を掃除していた時、「そうだ」と気が付いた。暖簾を出したままにしておいたのを忘れていた。いつもなら、暖簾は最初にしまうのだが、今日は、どうもリズムが崩れているらしい。
そういえば、今日、高橋は来るはずだったのに、来なかった。
忙しいのかも知れないが―――今日は来るだろうと思っていたから、幾らか、落胆はしていた。
食堂の入り口を開ける。
雨の音が強くなった。
「……あー、暖簾がびしょびしょ……」
明日までに乾かしておかないと、お客さんが店に入るときに濡れてしまう。
とりあえず、中へ取り込んで、少し水分を切ってから……スポット乾燥機を持ってきて数時間、乾燥させる必要があるだろう。
そう思いつつ暖簾に手を掛けた時「あー、やっぱ、もう終わっちゃったよね」と明るい声音で、声が掛けられた。高橋だった。仕事からの直行だったらしく、市役所の作業ジャンパーを着たままだった。
「……秀(ひで)幸(ゆき)……」
「ごめん、希(のぞみ)。……ちょっと遅くなっちゃってさ……」
高橋は、へらっと笑う。
「まあ事故とかじゃないなら、いいけど」
「……食堂でご飯食べようと思ってたのに……、この時間になっちゃった」
「残業?」
「そーそー、サビ残です……、桜町で、今度、イベントスペースみたいなの作るんだけど、そこを使ってみたいって言う人たち向けに、鐘崎さんと一緒に説明会やっててね~」
「……そんなのにまで顔出してたら、身が持たないだろうに」
「まあ、……桜町に貢献出来るなら良いかなと思って……でもしんどかった、なんか、心がすり減る感じだったよ」
一体どんな会合になったのか、想像も出来ないが「それは大変だったな」とだけ、松名瀬は受け流しておくことにした。
「え?」
「……俺だって、まだ自分のメシは食べてないからさ。……何か作るよ。リクエストある?」
「あっ、そっか……あれ? じゃ、いつも、俺が来るとき、希はどうしてたの?」
「結構、食べたり食べなかったりだな……。二人で酒を呑む時は、何かつまみを作るし……それで済んでた感じ」
「不健康だ」
「まあ、腹が減ったら食べるで良いんじゃないのか? 有り難いことだよ、それも」
満足に食べることが出来る。今の世の中だと、食事を抜く選択をする人も多い中、恵まれているのは間違いない。
「……ちゃんと身体のことは気遣ってよ?」
「勿論、それは気を遣ってるよ……それはさておき、なにを食べたい? それに……雨の中なんだから、そろそろ……」
そう告げた松名瀬の手をぐい、と高橋は引っ張った。
「えっ……?」
戸惑っている松名瀬の目の前で、高橋は、にやっと笑う。
「今はこれが一番食べたい」
そう小さく告げて、高橋は、松名瀬にキスをした。
「っ……!」
今は、夜で―――商店街は人通りは殆どない。
けれど、こんな往来でキスをされるとは思っていなかった松名瀬は、驚いて声も出なかったし、一瞬遅れて、身体が燃え上がるように熱くなってしまった。
「……っ!!!」
「……希~……、俺ね、今日は、本当に、しんどかった~。ご飯より先に、……こっちが食べたい」
甘えるような声を出す高橋の言葉を、誰か聞いている人は居ないか、ヒヤヒヤしながら「……良いけど」と松名瀬は彼を店の中へと誘った。
了