【試し読み】二人はかみ合わないっ!: ~言葉が足りないケンカップルのちょっとエッチなすれ違いラブコメディ~

二人はかみ合わないっ!: ~言葉が足りないケンカップルのちょっとエッチなすれ違いラブコメディ~

夕暮れ寮シリーズ

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「なんだ、これ」
 トイレの洗面台で顔を洗っていたおれは、鏡下の台のところに忘れ物が置かれていることに気が付いた。金色に光る、小さな指輪。こんな場所にあるはずのない、女ものの指輪だった。
(どう考えても、女性モノ――だよな)
 ここ、夕日コーポレーション夕暮れ寮は、独身寮。しかも男子寮である。関係者以外は入ることが出来ないし、まして男子寮なので女性が入ってくることは基本的に出来ない。(清掃員などは除く)
 清掃員のおばちゃんが忘れていったとも思えない、シンプルな指輪。とはいえ、結婚指輪というわけではなさそうだ。ファッションリングという奴だろう。細い金のリングに、小さなダイヤモンドが三つほどついている。
「きれーだな……」
 思わず明かりにかざしてリングを見る。おれには一生縁がない、綺麗なリングだ。
「……」
 誰も見ていないことを確認し、左の薬指に指輪を嵌めてみる。指輪は細く、俺の指には半分ほどしか入らない。第二関節ほどで止まった指輪は、それでも美しく輝いていた。
(――こんなところに置いてあるなんて)
 箱に入っていたわけでもなく、こんなところに置いてあったという事はポケットかなにかに突っ込んで持ち歩いていたのだろう。失くした本人は気づかずに落とし、誰かが台に置いたのかもしれない。
 ひょっとしなくても、落とし主はもうこの指輪を必要としていないかもしれない。行く当てのない指輪なのではないかと、ストーリーを夢想する。
「……」
 借りるだけである。本人が返却を求めたら、返せば良い。そうだ。預かるだけだ。これは親切心なのだ。
 指に光る指輪を見て、思わず顔が緩む。
「ふふ」
 きっと本人は名乗り出ない。これは見知らぬ王子様から、おれへの贈り物なのだ。勝手にそう解釈して、おれはトイレから立ち去った。


 ◆   ◆   ◆


 おれ、上遠野悠成(かどのゆうせい)は夕日コーポレーションに勤める会社員である。会社の運営する社員寮『夕暮れ寮』の一番上で一番端という、すみっこに暮らしている。部屋も目立たないけれど、存在も目立たない。それがおれだ。
(本当に、綺麗だ……)
 部屋に帰って、おれはうっとりと指輪を眺める。外す気はすでになくなっていた。
 おれは物心ついたころからゲイだと自覚した。多くのゲイがそうであるように、社会へはオープンにせず静かに暮らしている。ゲイのコミュニティには興味があったが、怖さが先立ちネット上ですらそういったコミュニティに参加していない、完全なるクローゼットである。恐らく一生「女性に縁のない男」として生きて、誰とも恋をすることなく終わるのだろうと思う。
 だが勿論、恋に憧れはある。普通に恋をして、デートをして、キスをして――セッ……まあ、色々したいのは事実だが、おそらくそれは無理だろう。せいぜい憧れのアイドルを追いかけて楽しむくらいしか出来ないのである。
 そんなおれが、最も憧れているもの。それが、指輪だ。
 十も歳の離れた姉が結婚したのは、俺が中学生の時だった。その時に見た姉の結婚指輪が忘れられない。清楚な銀色の指輪に輝くダイヤモンド。永遠の証である、美しい指輪。おれがゲイであることを唯一しっている理解者の姉は、「いつかあんたが結婚するとき、この指輪をあげるわよ」と言っていたが、きっとそんな日は来ないし、指輪は姉に持っていて欲しい。
 とにかく、その日から指輪はおれの憧れになったのだ。
「亜嵐くん、見て。綺麗でしょ」
 壁に張った『推し』の栗原(くりはら)亜嵐(あらん)の写真に向けて写真を見せる。亜嵐くんはおれが愛するアイドルグループ『ユムノス』のメンバーだ。ちょっとタレ目なところがセクシーな美少年である。
(これは亜嵐くんから貰った指輪ということにしておこう)
 一人で勝手に納得し、指輪を撫でる。
 指輪の持ち主はこの指輪を探しているだろうか。それとも、忘れたふりをして記憶からも消してしまうだろうか。この指輪につまった思い出はおれには解らないけれど、指輪はただキラキラと輝いている。



 そんなことがあってから二週間ほど、おれの指にはずっと金色の指輪が嵌ったままだった。仕事の最中は包帯を巻いて誤魔化し、寮に帰ってから外している。指輪自体は一度も外していない。幸いなことに持ち主が現れることも、誰かが指輪を探しているという話も聞くことはなかった。寮内に特別親しい友人のいないおれに、その指輪をどうしたのか聞くものもいない。
 本当は持ち主を探すべきだし、警察に届けるべきだ。頭ではわかっている。これって泥棒なんだよな。だけど指輪への憧れの気持ちから、それが出来ないままに指に飾っている。こんなことなら警察に届けて、自分のものになるまで待てば良かったのかもしれない。けど、指輪を手放すのが惜しくて辞めてしまっている。
(どうかしてるよな……)
 こんなに執着するなんて、思いもしなかった。小さな金色の指輪。おれの指には合わないしそもそも似合いもしないのに。
「ふぅ……とりあえず、食堂に行こう」
 少しだけ後ろめたさを感じながら、おれは指輪を撫でて部屋を出た。


 ◆   ◆   ◆


 夕暮れ寮の食堂は、夕日コーポレーションの所有する寮の中でもトップクラスで美味しいと評判だ。専属の栄養士が考えている献立は美味しいだけでなくカロリーと栄養素も考えられている。土日も営業して欲しいくらい評判が良いが、残念ながら営業は平日のみだ。
 おれはメニューを確認してトレイを手に取ると、給仕を待つ列に並ぶ。夕食時とあって、食堂は混雑していた。
「あー、カレーが良いかな……、それとも肉……」
 前に並んだ青年が、決めかねているのかブツブツと呟きながら並んでいる。長身で、赤く髪を染めた青年だった。
「あ、スプーン!」
 食器を取り忘れていたらしく、前の青年が勢いよく振り返る。反動でおれにぶつかりトレイが胸に当たった。
「いっ」
「あ、悪い」
「っ、良いです」
 少しムッとしたが、荒立てるつもりはない。青年はもう一度誤ってスプーンに手を伸ばした。
(ふぅ。何だよもう……。指輪に傷ついたらどうする……)
 指輪が変わらず輝いているのにホッとする。不意に、視線を感じて顔を上げた。赤髪の青年が、俺の指に視線を向けていた。
「っ」
 さりげなく指が見えないように角度を変え、様子を窺う。青年は何か言いたげな顔をしたが、追及はしてこなかった。ホッとして小さく吐息を吐く。何か言われたら、どう返したら良いのか考えなければならない。拾った指輪を着けているなんて、普通のことじゃない。
(外した方が良いのかな……でも)
 やっぱり、外したくない。
 おれがソワソワしているせいか、前に立つ青年もどこか落ち着かないように見える気がした。



 自動販売機で水を購入する。ペットボトルを手にその場を離れようとして、視線に気付き振り返った。
 談話室で雑談している集団に、一際目立つ赤毛の青年が居た。先程、食堂で前に並んでいた青年だ。
「……?」
 見られた気がしたが、青年はこちらを見ていない。気のせいだろう。落ち着かないままに階段を上る。おれの部屋は五階だ。
 しばらく階段を上り、また視線を感じて振り返る。あの青年だ。何階に住んでいるのかおれは知らない。少なくとも、五階には住んでいない。同じフロアの住人の顔くらいは把握している。
(なんか嫌だな。早く戻ろう)
 部屋に戻ったら、アイチューブで『ユムノス』のMVでも観よう。亜嵐くんの笑顔で癒されなきゃ。
 足早に階段を駆け上がる。すると、何故か赤毛の青年が走ってきた。
「何でえ!?」
 まさか、おれを追いかけている? そう思ったら怖くなって、思わず駆け足で階段を上る。
「っ! 待て!」
 明らかにおれだ。おれを追っている。
(なんでっ!?)
 先程ぶつかったとき、態度が悪かったからだろうか。向こうが悪いのに。
(早く部屋に入っちゃおう!)
 住人とトラブルとか、冗談じゃない。
 部屋前まで走り、鍵を取り出す。早くしなきゃ。ガチャガチャと鍵を鳴らして、施錠を外す。
(開いたっ!)
 扉を開け、部屋に滑り込むように入る。助かった。
 そう思ったのに。
 ガシッ。
「え?」
 ドアから、男の腕が伸びる。閉まりかかった扉を開いて、赤毛の青年が立っていた。
「ちょ、ちょっとぉ!?」
 まさか部屋にまで追いかけてくるとは思わず、おれは青くなった。乱暴そうな見た目の彼に、ゾクッと背筋が震える。二十七年生きてきて、暴力とは無縁だった。
「ちょっと、邪魔するぞ」
 青年は低い声でそう言うと、強引に部屋の中へ入ってしまった。恐怖に固まるおれのすぐ耳元に手を伸ばし、彼は部屋の明かりをつける。
「ひっ……」
 萎縮するおれと余所に、青年は平然とした態度で、一度部屋を見回す。壁には亜嵐くんのポスター。誰かを招いたことはない。部屋を見られたのは始めてだった。戸惑いが余計に大きくなる。
「なっ、何ですかっ!?」
 ビクビクしながら青年を見上げる。青年はおれより目線が少し高い。握手会の時に見上げた亜嵐くんくらいだろうか。それならば183センチだ。
「あんた、これ」
 グイと腕を掴んで、捻りあげられる。
「痛あっ!」
「あ、悪ぃ」
 パッと腕を離され、おれは後ずさった。左腕が痛い。酷い。あんまりだ。
 涙目で睨み付けると、青年は少し怖じ気づいた顔をした。だが、引く気はないらしい。出ていく素振りもなかった。
「何なんだよっ!?」
 早く帰って欲しい。出ていって欲しかったが、怖くて近づけない。オドオドしながら、亜嵐くんのポスターの近くに逃げた。助けて亜嵐くん。
「――あんた、その指輪」
「指輪?」
 指輪という言葉に、ドキリと心臓が跳ねた。まさか。
「その指輪、見せて」
「えっ……」
 咄嗟に指輪を手で覆い隠す。青「あんた、これ」
 グイと腕を掴んで、捻りあげられる。
「痛あっ!」
「あ、悪ぃ」
 パッと腕を離され、おれは後ずさった。左腕が痛い。酷い。あんまりだ。
 涙目で睨み付けると、青年は少し怖じ気づいた顔をした。だが、引く気はないらしい。出ていく素振りもなかった。
「何なんだよっ!?」
 早く帰って欲しい。出ていって欲しかったが、怖くて近づけない。オドオドしながら、亜嵐くんのポスターの近くに逃げた。助けて亜嵐くん。
「――あんた、その指輪」
「指輪?」
 指輪という言葉に、ドキリと心臓が跳ねた。まさか。
「その指輪、見せて」
「えっ……」
 咄嗟に指輪を手で覆い隠す。青年がムッとした顔をした。ズカズカと足音を立てて、一気に詰め寄ってくる。
「おい、見せろって言ってんだろ!」
「やっ……」年がムッとした顔をした。ズカズカと足音を立てて、一気に詰め寄ってくる。
「おい、見せろって言ってんだろ!」
「やっ……」
 強引に腕を引っ張られる。
「や、嫌だぁ、エッチ!」
「エッ――何がだよ!」
 青年が戸惑いを向ける隙に、再び壁際に逃げる。
(もしかして……。指輪の、持ち主?)
 何となくそう思いながら、俄には信じがたかった。青年がそういうタイプに見えなかったからだ。繊細そうなイメージを勝手に抱いていたせいで、謝罪のタイミングを逃している。
(もし、この指輪の持ち主だったら――返さなきゃ……いけないのか)
 当然の話だったが、愛着が沸いてしまって残念だった。
「やっぱ、俺のじゃねーか……。返せよ」
 ぶっきらぼうに言われ、ムッとして顔をしかめる。つい、反論してしまった。
「しょ、証拠はっ?」
「あ? ……んなもん……ねーけど……」
 青年が戸惑う。この指輪が彼のものだという証拠はない。指輪には刻印はなかった。
「じゃあ、渡せません」
 不法侵入されて、腕を捕まれたのだ。少し意地悪してやろうと思ってしまった。恐くて足は震えていたけど。
「何だと?」
「ひっ!」
 ビクッと肩を震わせ、頭を庇う。殴られたりするんだろうか。怖い。けど、指輪を渡したくない。もう、おれのものなのに。
「はぁ……。あのさぁ、何でそんなもん嵌めてるわけ? 返せよ。それか、棄てろ」
「は?」
 青年の言葉に、おどろいて顔を上げる。
「目障りなんだよ、それ。さっさとしろ」
「――じゃあ、下さい」
「は?」
 今度は、青年が聞き返す番だった。
 どうやら彼は、指輪が不要らしい。それなら、おれが貰っても良い筈だ。
「要らないんですよね。下さい。気に入りました」
「ばっ……。バカか、あんた!」
「ど、怒鳴らないでっ」
 また怒りを見せる青年に、怖くて身体が震える。
「チッ……。やるわけないだろ。さっさと返さねえと、指ごと――」
「指ごと?」
 青年は言い掛けて、止めた。何を言おうとしたのか、聞くのが怖い。青年はため息を吐いて、ゆっくりおれに近づいた。野良猫相手にするように、おれを怖がらせまいとしているようだ。
「良いから、返せ。解ったな?」
「い、嫌だ。棄てちゃうんでしょ? おれが返したら、棄てるんだろっ?」
「棄てる」
「良いじゃないか。きみは棄てた。おれは拾った。それで良くない? なんなら、お金払うし……」
 ダン。青年が壁を叩いた。俗に言う壁ドンである。
「金の問題じゃねえんだよ」
「ああああ、亜嵐くん!」
 亜嵐くん(ポスター)が殴られた。推しを殴ったこの人。やだ、怖い。
「もお、何なんなの! 帰って! 帰ってーっ!」
 ぐいーっと青年の胸を押す。だが、びくともしない。
「騒ぐな! 返せば帰る。早くしろよ!」
「嫌だもん、おれのだもん! 亜嵐くんがくれたんだもん!」
「誰だよ!」
 腕を引っ張られ、胸を押し返す。力じゃ勝てない。無理だ。無理やり手を開かされる。このままじゃ取られちゃう。
「――っ! キス!」
「あ?」
「キスしてくれたら、返します!」
 何でそんなことを言ったのか解らない。多分、ドン引きして逃げ帰ってくれるのを期待したんだ。
 出来っこない。そう思ったから。
「は。二言はねぇな」
 え。
 反応するより早く、青年の唇がおれの唇を塞いだ。



 他人の舌が想像より熱いと、初めて知った。唇を割って、ぬるりと舌が侵入する。戸惑うおれの身体を引き寄せ、濡れた唇がおれの唇を貪る。
 ビクリと身体を揺らし、戸惑いに視線をさ迷わせる。思いの外、睫が長い。厚い胸板にドクンと心臓が鳴る。
(え、嘘)
 キス、してる。
 キスしてる。知らない男と。
 ちゅくと音を鳴らし、強引で荒々しいキスを繰り返す。驚いて逃げるおれの舌を無理矢理絡めとり、吸い上げる。上口蓋を舐められ、ゾクゾクと身体を揺らす。
「んぅ、んっ」




 くぐもった声は、自分の声じゃないみたいだ。青年は角度を変え、おれの頭を掴み唇を噛んだり吸ったりと、キスを繰り返す。
 嘘だ。こんな激しいキス。信じられない。亜嵐くんの前なのに。
 気持ち良くて、恥ずかしくて、恐くて、どうして良いか解らない。
「うっ……、んっ……!」
 ビクッ、ビクッと肩を震わせて、おれは青年の胸を叩く。
 こんなの、嘘だ。嘘に決まってる。
「んだよ、暴れんな……」
 掠れた声でそう言って、青年がちゅうっと唇を吸った。
「んぅっ……!」
 もしかしなくても彼は、怒っているのだろう。壁をに押し付けられ、唇が腫れるほどキスをされる。眦から涙がこぼれ、唾液が顎を伝って落ちていった。
「あ、んぅ」
 青年の手が、指に伸びる。指輪取られると思い、手を握った。青年が睨む。
 そんなに、怒らないで。
 頭がボンヤリして、声にならない。
 気づけばおれは、激しいキスに溺れるように、意識を手放した。


   ◆   ◆   ◆


「はっ!」
 不意に意識を取り戻し、おれは慌てて飛び起きた。何故かベッドに寝かされていた。もしかして夢だったのかと思ったが、唇に違和感を覚えて、夢でないと思い知る。
「う……」
 じわり、涙が溢れる。
 自業自得とはいえ、酷いじゃないか。あんなキスするなんて、信じられない。
 よく知らない男と、キスした。乱暴で、イヤらしいやつ。あんなのが、ファーストキスだなんて。
「うわぁああん、亜嵐くん、亜嵐くん」
 推しの名前を呼んで、泣きじゃくる。誰とも付き合ったことがない。今後も付き合うつもりがない。だから自分のファーストキスは、亜嵐くんに捧げてたのに。酷い。あんまりだ。
 亜嵐くんなら景色の良い場所で、優しく触れるだけのキスをして、恥ずかしそうに微笑んでくれるのに。あんな、暴力みたいな野蛮なキス。
「う、ううっ……」
 グズグズと鼻を啜り、ひとしきり泣いたところで、おれは彼が居なくなっていることに気づいた。気を失ったおれをベッドに寝かせ、そのまま出ていったらしい。
「最悪……」
 すん、と鼻を啜り、ふと習慣になっている指輪を見つめて、おれの手にまだ指輪が嵌まっていることに気がついた。
「――指輪。おれの、指輪」
 金色の細いリングは、変わらず左手は薬指に引っ掛かっていた。
 彼は、指輪を持っていかなかったらしい。どう言うことかは知らないが、指輪がまだ残っていたことにホッとする。
「良かったあ……」
 キラキラ光る指輪に頬を寄せ、安堵の息を吐く。
 キスは最悪だったけど、指輪は手元に残った。おれはその事実だけにホッとして、青年のことは頭から消し去ることにした。

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